バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

Entries

コラム【モーダカ、歓喜団あれこれ】



「聖天(しょうてん)さまに捧げる歓喜団は、インドのモーダカと同じものなのでしょうか?」
京都で、真言のお坊さんから、そんな質問をいただきました。「歓喜団」なるお菓子とともに。
聖天は、象の頭をしたガネーシャ神の日本での名。歓喜天(かんぎてん)とも称される彼の大好物が歓喜団。密教寺院では、同名の菓子が聖天への特別の供物とされています。そして、モーダカは、歓喜団の原形とされるインドのお菓子で、やはりガネーシャ神に捧げられます。
京都では、その歓喜団が、千数百年前からほとんど姿を変えていない唐菓子(からくだもの)のひとつとして、ふつうに市販されているのです。唐菓子は、遣唐使船に載ってやってきた文字どおりの「唐の菓子」で、和菓子の原形ともいわれています。
歓喜団――正式名「清浄歓喜団」は小さなものなのですが、立派な箱に入っていて、「ありがたオーラ」を放っています。家に帰って、ガネーシャのマントラを誦え、高い茶……は無理でも、茶をていねいに淹れて、いただきました。
小豆のアンコを米粉の皮でキンチャク型につつみ、胡麻油で固く揚げた古代の菓子。アンコには、7種の薬――白檀、シナモン、カルダモン、クローブなど、いわば「天竺の香り」が練りこまれています。奈良が都であったころ、やんごとなき方々は、そのエキゾチックな香りに、香木がしげり、花咲きみだれ、霊鳥が「若空無我常楽我浄」(にゃく・くう・むが、じょう・らく・が・じょう)とうたう西方の仏國土をしみじみと思い泛かべたことでしょう。
以下は、冒頭の問いの答えを兼ねた、モーダカと歓喜団の比較論です。

まず名前。モーダカ(modaka)は、√mud(喜ぶ)の派生語ですから、「歓喜団」は適切な訳といえます。
現在のインドでは、モーダカは、ムンバイを州都とするマハーラシュトラと南インドでよく作られています。
ココナッツと椰子糖のアンコを米粉の皮でティアドロップ型につつみ、蒸したものが一般的。ココナッツと椰子糖と米粉および若干のスパイス――というシンプルな組み合わせは古代からほとんど変わっていないと思いますが、多くのバリエーションもあります。皮は米粉のほか小麦粉でも作られるし、蒸すだけではなく、歓喜団同様に油で揚げたりもします。
日本の歓喜団のアンコが小豆になったのは江戸時代のことで、それ以前は栗、干した柿や杏(あんず)などの木の実を、甘草(かんぞう)や甘葛(あまずら)で甘味をつけ、薬で香りをつけたものであったとか。
中央アジアを通って唐に入ったモーダカには、アーモンド、松の実、クルミなどのナッツ類、デーツ、アンズ、イチジク、ブドウなどのドライフルーツが使われていたことでしょう。フルーツ類が十分甘いので砂糖を加える必要はないが、インド起源のものであればスパイスまたはアーユルヴェーダの薬物も混ざっていたと考えるべきです。
そのアンコを、おそらくは小麦の皮でキンチャク型につつんで、油で揚げたものが歓喜団の原形と思われます。油で揚げるのは、インドでは、それによって食物が浄化され、神仏に捧げるに適したものになる、と考えられていたからです。
キンチャク型は、砂金の袋を表しています。モーダカのティアドロップ型は、ラトナ(宝石)をあらわすインドの伝統的な形ですから、モーダカと歓喜団は、形の意味するところも合致しています。
歓喜をもたらす甘美な菓子で、縁起物。しかし、その「歓喜」には、
――薬物によって得られる陶酔
のニュアンスも籠められているにちがいない。というのは、アーユルヴェーダにも、“モーダカ”と呼ばれる薬剤があるからです。この場合は皮なしのアンコだけといった感じ。生薬を、粗糖の粘性を利用して、団子状にまるめます。
わたしは、インドの田舎の薬局で求めた強壮剤としてのモーダカを食べて、いい気分になった経験があります。もっと、具体的にいえばラリる。トリップする。のちに、アーユルヴェーダ薬剤の昔風のレシピには大麻がよく用いられている、ということを知りました。今でいう「医療大麻」です。
また、象使いから、象に大麻と粗糖でつくった大きなモーダカを与える、ということも教えてもらいました。象はこれにより機嫌がよくなり、象使いの命じることに素直にしたがうようになります(今回の「ちょこっとサンスクリット」を参照)。ガネーシャの大好物のモーダカは、彼をハイにし、その荒ぶる力を制御するためのものでもあったのです。

ちょこっとサンスクリット語【バーラタ Bhārata भारत】


インド、Indiaは、あくまでも外国人があの国を呼ぶときの名。
http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-119.html
インド人自身は、みずからの国を「バーラタの国」と称します。古くはBhārata-varśa(バーラタの領土)、現国名はBhārata-gaṇarājya(バーラタ共和国)。
バーラタは「バラタに属する、バラタの子孫、バラタ族」ぐらいの意。
バラタ(Bharata)は√bhṛ(担う/運ぶ/保つ)の派生語ですから、「[義務/正義を]担う者」。
インドの神話伝説には3人のバラタが登場します。⑴ 『マハーバーラタ』やカーリダーサ(5世紀)の戯曲にうたわれるシャクンタラー姫の息子、⑵ ラーマの弟、⑶ ダンスの教典『ナーティヤ・シャーストラ』の作者――ですが、この場合は⑴のバラタ。いかなる人物だったのでしょう?
リグ・ヴェーダ時代にまでさかのぼらなくてはなりません。

リグ・ヴェーダ時代には、5つの主要な部族(王族)が存在しました。プール族、ヤドゥ族、ドルヒユ族、アヌドルヒユ族、トゥルヴァシャ族です。
わたしは、「アーリヤ人侵入説」がイギリス植民地政府による捏造であること(BBCが認めている)、『リグ・ヴェーダ』に現れる地名とインダス文明の領域がぴたりと重なること、『リグ・ヴェーダ』の文化とインダス遺跡からの考古学資料に矛盾がないこと、などから、
――インダス文明はリグ・ヴェーダの文明であった。
と考えていますが、数十世代にわたる王の名を連ねたプラーナ文献の「王統記」にあたれば、これらの部族がどこに居住していたかがわかります(ちなみに、ヴェーダ文献はバラモンの伝承、叙事詩やプラーナ文献はクシャトリヤの伝承にもとづいています)。すなわち――
◦プール族:インダス-サラスワティー流域
◦ヤドゥ族:グジャラート
◦ドルヒユ族 :アフガニスタン
◦アヌドルヒユ族 :カシミールの一部
◦トルヴァシャ族:パキスタンとイランにまたがるアラビア海沿いの山岳地帯
これにしたがえば、モヘンジョ・ダーロやハラッパー、カーリバンガンはプール族(パウラヴァ)の都市、ドーラビーラやドワーラカーはヤドゥ族(ヤーダヴァ)の都市ということになります。
5部族は、共通の先祖をいただき、文化も共有する「ヴェーダの民」でしたが、彼らおよびその支族は、同盟したり反目したりして、絶えず戦っていました。領土を拡大することが王族の義務であったからです。もっとも、それは、他の王の領地を併合するというより、主に宗主権を奪うことによってなされました。

さて、問題のバラタ。彼は、文明の中心地、インダス-サラスワティー流域を支配したプール族の王ドゥフシャンタと、シャクンタラーの間に生まれた息子です。
シャクンタラーは、伝説によれば、ヴィシュワーミトラ仙の娘。ヴィシュワーミトラは、ガーヤトリーを含む『リグ・ヴェーダ』第3巻の作者。大聖者ですが、その威を畏れた神々の王インドラが天女メーナカーを派遣し、誘惑させる。けっか、生まれたのがシャクンタラーで、その数奇な運命は前記したカーリダーサの戯曲によって広く知られています。
そして、バラタは、
――転輪聖王(Cakravartin;法によって統治する理想的な王)として、全世界を征服した。
とされています。伝説になにがしかの真実が含まれているとしたら、BC.2700年頃に築かれたインダス最大の都市モヘンジョ・ダーロはバラタの居城で、彼はそこを拠点にインド(インダス文明圏)を統一したのかもしれません。たしかにインダス文明は、上にあげた広大な地域に成立した文明であるにもかかわらず、(未解読ではあるが)文字、度量衡がみごとに統一されている。文明全体をデザインすることのできる強大な権力が存在した、としか思えません。
そのバラタの子孫がバラタ族(バーラタ)。かれらは親戚である他のパウラヴァと争うこともありましたが、バラタからかぞえて9代目のクル王の時代にクル族(カウラヴァ)としてまとまります。
クルから14代目のシャーンタヌ王は、ガンガー女神と結ばれる。これは、バラタの子孫たちの舞台が、インダス流域からガンガー上流域に遷ったことを物語っています。
そして、シャーンタヌの系統からドリタラーシュトラ、パーンドゥの兄弟が生まれ、その子どもたちがカウラヴァとパーンダヴァに分かれ、マハーバーラタ大戦争に至ります。

バーラタ(バラタ族)がその後どうなったかは、定かではありません。しかし、「バーラタ共和国」という名のりからは、
――インドの黎明期に全世界を征服したバラタの子孫の国こそがインドの正統である。
とする歴史観が、こんにちにまで継承されていることを見てとれます。

コラム【実録マハーバーラタ】


おもしろかった、すごかった。歌舞伎の『マハーバーラタ戦記』。
東西の花道を両陣営に見立て、カウラヴァとパーンダヴァが対峙する。舞台と客席がクルクシェートラの戦場に変わる。義太夫のギーター。わっはっは。インドのグルたちに聞かせてやりたいねえ。腰ぬかすぜ、きっと。戦車が疾走する。矢が飛び交う。なんたるスペクタル。みごとなエンターテインメント。ザッツKABUKI。
10万偈頌(シュローカ)におよぶ――といってもピンときませんが、本にしたら1万ページは越えるであろう長大で複雑な物語を、菊之助演じるところの迦楼奈(かるな)と、松也の扮する阿龍樹雷(あるじゅら)の葛藤に焦点を合わせ、すっきり、わかりやすく、しかも見応えある舞台に仕立てた脚本の力がすばらしい。
あの公演で、インド叙事詩『マハーバーラタ』に興味を持たれたかたも多いことでしょう。
ヴィヤーサ作とされる『マハーバーラタ』には、4世紀に強大化するフーナ(エフタル)のことがしるされていることなどから、グプタ時代(5世紀頃)に現在にかたちになったと考えられています。
インド人は『マハーバーラタ』をそこに記されたどおりの史実だと考えていますが、もちろんそんなことはありません。かといって、まったくのフィクションというわけでもない。
おそらくは、BC.1000年頃に実際に起きた同族間の戦争をうたった素朴なバラッドが、千数百年もの時間を雪ダルマのごとく転げおちるうちに、他の伝承を巻きこみ、吟遊詩人たちの想像力のマサラ(風味づけ)をたっぷりと効かせられ、大きく大きく身を肥らせていったのです。
では、物語から贅肉をはぎとり、史実としての芯の部分だけを残すと、どのようなものになるのでしょうか。考古学資料を中心に検証してみましょう。

『マハーバーラタ』の最後の方で、阿龍樹雷、いやアルジュナの盟友であったクリシュナの都ドワーラカーが地震と津波に襲われて海に沈みます。クリシュナはともかく、海港都市ドワーラカーが実在し、ほんとうに海に沈んだことが、1990年前後に行なわれた考古学調査で明らかになりました。
http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-38.html
インダス文明は、BC.2000年頃から衰退し、BC.1700年までにはほとんど消滅してしまいますが、ドワーラカーはBC.1500年まで生き延びた最後のインダス都市でした。
そして、そのころまでにインダス文明時代、つまりリグ・ヴェーダ時代はインダス-サラスワティー流域に住んでいたバラタ族(バーラタ☞「ちょこっとサンスクリット」参照)が、ヤムナーとガンガーの上流域に定着しました。泥や日干煉瓦で家をつくり、稲作をいとなみ、道具の種類も多くなり、鉄の武器も出現します。
各地に、農園を基盤とした大きな邑(むら)ができます。そして、バラタ族以外のクシャトリヤ階級も台頭し、群雄が割拠する。日本の平安時代に、荘園と、それを守る武士階級が出現するのと似ています。「叙事詩時代」の始まりです。それは同時に、王たちが哲学においてバラモン衆をしばしば圧倒する「ウパニシャッド時代」の幕開けでもありました。
やがて、バラタ族は、他の王族を統べ、BC.1100年頃にインダス滅亡以来はじめての都市、ハスティナープラを築きます。ハスティナープラとは「象の都城」の意。ガンガーの右岸で、菊之助が迦楼奈のメイクをしてスチール写真を撮ったハリドワールを少し下ったところ――そう、『マハーバーラタ戦記』にいう「象の国」はここです。
バラタ王家は2つに分裂する。一方がハスティナープラからの追放されたことは、ウパニシャッドにもしるされているから史実でしょう。
ハスティナープラから少し遅れて、ヤムナーの右岸にインドラプラスタという都市が築かれます。現在のデリーの、プラーナ・キラ(古城)や動物園、フマユーン廟があるあたりです。追放された人々が造ったかどうかは定かではありませんが、出土物からハスティナープラと同一の物質文化(土器の特徴から「彩文灰色土器文化」と称される)を営んでいたことがうかがえる。つまり、バラタ族と同族であるということです。
そして、デリー北方の平野、クルクシェートラ(現在も同じ地名)で、両勢力が激突する「天下分け目の決戦」。『マハーバーラタ』には、何百万もの戦士が殺しあう世にも恐ろしい戦争であった、とありますが、どのような規模の戦闘であったかはわかりません。せいぜい千人単位の小規模な武力衝突だったのかもしれません。
物語ではその後、クリシュナが死に、彼の都ドワーラカーも海に沈み、戦争に勝利したパーンダヴァも世をはかなみ、神々の座をめざしてヒマラヤに登る途中に遭難死をとげる……のですが、ドワーラカーが沈むのは、考古学によればその500年も昔であったことは先述したとおりです。

ちょこっとサンスクリット語【マルマン marman मर्मन्】

ちょこっとサンスクリット語【マルマン marman मर्मन्】

マルマ(サンスクリットでは“マルマン”)という語も、アーユルヴェーダ関係者のあいだでは、よく知られるようになりました。インドにおいても……。
そう、インドにおいても。
というのは、ほとんどのインド人にとって“マルマ”は、仏教と同様に、とうの昔に忘れ去られた知識であるからです。中世のムスリムとの果てない闘争のうちに、失伝してしまったのです。現在、アーユルヴェーダの主流は内科の「チャラカ医学」ですが、そこでは外科に属するマルマを学ぶことはありません。
しかし、インド人は、ヨーガと同様に、逆輸入されるかたちでマルマを知った。
それが、中国のツボ・ポイント(経穴)に似ていることを知った。
アキュパンチャー(鍼灸術)は、国際的な評価がひじょうに高い。ならば、マルマも金になる、と察した。
というわけで、最近のインドでは、マルマの専門家が続出し、マルマ本も数多く出版されるようになりました。が、残念ながら、邦訳されているものも含め、それらのほとんどは中国のツボの理論を借用したもので、古代のマルマとは別ものです。
真のマルマを伝えているのは、外科の「スシュルタ医学」にもとづく医療を行なうケーララのカラリ医師と、錬金術的な「シッダ医学」にもとづくタミルのシッダ医師のみ。しかし、カラリ医師のほとんどは身分的にはシュードラであるナイル族であるため、高カーストのアーユルヴェーダ医は立場上、学ぶことができない。シッダ医師は秘密主義に徹している。
英語の本もたくさん出ているアキュパンチャーに学ぶしかなかったのです。
以下に、“マルマン”の意味と用法、定義などを、備忘録的にしるしてみましょう。

マルマン(marman)は、√mṛ(死ぬ)という語根を名詞化したかたちで、原義は「死」そのもの。一般的には、「心臓や脳や肝臓などのダメージを受けると即死にいたる臓器、急所」、転じて「秘密、ものごとの核心、神秘、真実」の意で用いられます。
この語の初出は、最古の『リグ・ヴェーダ』。神々の王インドラは、魔神ヴリトラと戦い、そのマルマンにヴァジュラを投げつけて敵を屠った、とあります。
その後、“マルマン”はヴェーダ文献や叙事詩に頻繁に登場します。これはインド初期の武術家たちが、マルマンの攻撃と防御を修行していたことを物語っています。
現存する古代の武術文献にマルマンにたいする専門的な記述は見当たりませんが、同時期の医学文献『スシュルタ本集』に系統的なマルマンの知識が記載されています。スシュルタは“マルマン”を、
「筋肉・脈管・靭帯・骨・関節(māṃsa-sirā-snāyu-asthi-sandhi)に存在する、プラーナが(
prāṇaḥ)特別なかたちで(viśeṣeṇa)依って立つ(tiṣṭhanti)処」
と定義し、107のマルマンを説明します。それらは、損傷すると、
「即死するもの(sadyaḥ-prāṇahara)、近いうちに死にいたるもの(kālāntara-prāṇahara)、矢などの突き刺さった物を抜くと死にいたるもの(viśalyaghna)、身体障害になるもの(vaikalyakara)、激痛を発するもの(rujakar)」
の5種に分類されます。
これを見ると、スシュルタのいう“マルマン”は、当時の解剖学的知見を集約した、人体の、文字どおりのマルマン(肝心かなめの知識)であることがわかります。
たとえば、「脈管のマルマン」のフリダヤ(心臓)、ニーラー(頸動脈)、ウールウィ(上腕動脈および大腿動脈)は、いずれも出血多量が原因で死にいたる急所。アパラーパ(脇窩)には血管に沿って複雑な神経叢があるため、今日の外科手術でもメスを入れるのは危険な場所とされています。
そうした「プラーナが依って立つマルマン」の知識は、前記した特殊な医学やヨーガを生み出しました。しかし、これも前述したとおり、極度の秘密主義ゆえ、真伝はほとんど知られていません。
今回の満月通信「サンスクリットで鍼灸を」も、あわせてお読みください。

【コラム】 サンスクリットで鍼灸(しんきゅう)を

コラム 【サンスクリットで鍼灸(しんきゅう)を】

10年ほど前のアーユルヴェーダ総会でのこと——
「チャイナのツボ・ポイント(経穴)とメリディエン(経絡)は、わが国のマルマとナーディーのコピーである。ブッディズムとともに、インドからチャイナへと伝わったのである!」
インドから招かれた「マルマの専門家」なるバラモンのドクターが、意気揚々と発表します。
「したがって、メリディエンもインドが起源。インドのものである!」
(おいおい、それはないだろ。ツボはともあれ、経絡は中国が起源だ。2000年前の漢代の医者たちが、囚人を生体解剖して、考え出したんだ)
そうケチをつけてやろうと、ガンバって英語の抗議文を考えていたのですが、控え室でドクターから、
「イトーセンセの講演はすばらしかった(わたしも「マルマとタントラのヨーガ」という発表をした)。インド人もビックリね」
と先にいわれ、ヨイショに弱いわたしは、まあいいか、と腰砕けになってしまいました。

そのときに貰ったドクターのマルマ本——ずっと放ったらかしにしていたのですが、最近ようやく読んでみました。
「経絡だけではなく、アキュパンチャー(鍼灸術)もインドが起源である。ちゃんとヴェーダに書いてあるが、読み方がまちがっているので、誰も知らないのだ」
という論調で、うさん臭さ満載なのですが、こじつけもここまでくれば、見事というほかはない。
ここでいうヴェーダとは、アーユルヴェーダの外科医典『スシュルタ本集』のこと。
スシュルタは、ダマニとシラーという脈管についてしるしています。通常は大小の血管やリンパ管とされていますが、ドクターの「正しい読み方」によると、ダマニは経絡で、シラーは経穴とのこと。シラーは単独で、またはいくつか集合して、マルマと称される。
また、経絡には、ルートにしたがい、心経、胆経、肝経などの「12の経」と督脈、任脈の「2つの脈」がありますが、心経はフリダヤ・ダマニ(心臓の管)、胆経はピッターシャヤ・ダマニ(胆囊の管)、肝経はヤクリト・ダマニ(肝臓の管)、督脈はシュクラ・ナーディー(精液脈管)、任脈はアールタヴァ・ナーディー(快感脈管)という梵名を駆使しています。
鍼(はり)はシラー・ヴェーダナ(シラーを貫くこと)。この語は『スシュルタ』に頻繁に見られますが、通常は「微細な脈管を傷つけること」と解釈されます。
灸(きゅう)はアグニカルマン(火の処置)。病変した組織を熱した鉄片などで焼く「焼灼法」と考えられていますが、ドクターは「灸である」と主張してゆずりません。

『スシュルタ』からの(確かにそのようにも解釈できる)サンスクリットの引用文が絶妙で、読んでいるうちに、ひっとしたらドクターのいうことが正しいのかも、という気にさえなってきます。
しかし、経絡は、木火土金水の陰陽五行説にもとづく、きわめて中国的な発想です。木=肝臓と胆囊、火=心臓と心包、土=脾臓と胃、金=肺臓と大腸、水=腎臓と膀胱……などと関連づけて、あの精緻な気のルートが出来上がりました。
マルマを結ぶライン——ナーディーは、これとは異なる発想です。心臓または臍(あるいは臍下のカンダ)から、「人体というプラ(城)の門」である両目、両耳、両鼻孔、口、尿道口、肛門、頭頂孔に向けてはり巡らされたプラーナの通り道。
そして、中国に鍼灸があるように、インドの伝統的なマルマ療法には、身体に浸透する薬用オイルなどを用いてマルマに働きかける精妙なマッサージ術があります。
もっとも、その伝承者が低カーストであるために、高カーストのアーユルヴェーダ医はまったく無視しているのですが。
ドクターの説は、残念ながら、あやまりといってよい。しかし、
「鍼灸で最大の効果を得るためには、その前に、経絡に沿ったスネーハナ(注油法)とスウェーダナ (発汗法)を行なうべきである」
などという記述もあり、「インド起源説」を声高に叫ぶのでなければ、ふたつの伝統医学の融合をはかるすぐれた媒介になりうる、と思いました。
サンスクリットで鍼灸を学ぶ、というのも面白いですし。

左サイドMenu

プロフィール

インド作家_伊藤武(クルシー)

Author:インド作家_伊藤武(クルシー)
 
メルマガ『満月通信』のコラムを載せていきます。
 
講座案内等はこちらでお知らせしています。
http://malini.blog105.fc2.com/

お問い合わせはこちらまで。
yaj612@gmail.com

twitter

最新記事

最新トラックバック

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR