2014.08/11 [Mon]
サハジャ sahaja सहज(【伊藤武のちょこっとサンスクリット語】
「これでいいのだ」(バカボンのパパ)、「Let It Be=あるがままに」(ビートルズ)に当たるサンスクリットが、サハジャ。
saha(ともに、〜とともに)+√jan(生まれる)で、
「生まれながらの / 先天的な / 生得の/固有の / 自然の、兄弟」の意で、「ある宗教的境地」をあらわす語としても用いられます。
歴史を重ねた文化や知識や技術の蓄積——「伝統」は素晴らしい。しかし、ややもすれば、伝統が個人の身と心に重くのしかかり、雁字搦(がんじがら)めにしてしまうこともありがちです。とくに、インドのような国では。
キリスト教の『新約聖書』に相当するヒンドゥー教の聖典を、ひとつだけあげよ、といわれれば、霊魂と肉体を厳しく峻別(しゅんべつ)する『バガヴァッド・ギーター』に尽きましょう。
霊魂は、神(バガヴァット=クリシュナ)に属する、永遠なるもの、聖なるもの。
肉体は、生まれては死に、死んでは生まれ……をくり返すはかなきもの、俗なるもの。
肉体に執着するかぎり、輪廻と苦しみはつづく。神と合一するためには、すなわち輪廻の鎖を断ち切るためには、肉体から派生するすべての欲望(カーマ)と行為(カルマ)を捨てよ……。
こうした『ギーター』の教えが、ヒンドゥー教とヨーガを形成していった、といっても過言ではありません。しかし、8〜12世紀、
「人は、生まれもったその身のまま(サハジャ)で尊いのだ!」
と「伝統」に異議申し立てをするシッダ(siddha、「成就者」と訳される)とよばれる人びとが現われます。かれらは、
「生きとし生けるものは、聖でも俗でも、霊でも肉でもない、しかし、清浄で空である」
と訴え、サハジャ運動なるものをくり広げます。
これに、わたしがつい連想してしまうのは、1960年代のヒッピー・ムーブメント。当時のアメリカは、人種差別の激化、ベトナム戦争の拡大、公害の深刻化など、効率と豊かさを追求する西洋社会のゆがみが随所で露呈し、混迷を深めていました。ヒッピーは、そうした伝統社会に背を向けた異端児でした。
20世紀のヒッピーが「ラブ&ピース」を合い言葉としたごとく、インドの先駆者たちは、
——スカ(sukha;快楽)&シャーンティ(śānti;平安)
を唱えます。
この場合のスカにはセックスに象徴される「肉体的快楽」、シャーンティには「解脱」の含みがあります。もちろん、このふたつは、伝統的な宗教やヨーガでは相反する概念です。しかし、男女の愛は、ヒッピーの「ラブ&ピース」においても、シッダの「スカ&シャーンティ」においても、かれらの理想を表現する恰好の手段となり得たのでした。
ヒッピーがロックや映画という布教の媒体を見出したごとく、シッダは神秘的な詩を歌い、かれらと近しい立場にある吟遊詩人たち(ベンガルのバウルはその流れを引く)は、シッダの不思議な物語を弦にのせて広めました。
そしてヒッピーたちは、シッダたちのごとく長髪に髭をたくわえて放浪し、シッダたちの発明したハタ・ヨーガを発見するのです。
そう、ハタが理想とするのは、聖と俗が、霊と肉が、どちらが善でも悪でもなく、両立する境地(samarasa)。肉体をケガレと蔑視することのないシッダたちの間から生まれた、
——サハジャ(あるがままで好し)
を確認するためのヨーガなのです。
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