バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

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ポルノ? それとも聖典?【伊藤武のかきおろしコラム】


インド・ダンス、とくにオリッシーといえば、クリシュナとラーダーの愛の物語『ギータ・ゴーヴィンダ』。
インドでの『ギータ・ゴーヴィンダ』は評価は、真っ二つに分かれます。すなわち、
——ポルノである!
——聖典である!
全編、ここではちょっと書けないような、濃密な性愛の描写に満ちています。サンスクリットの詩からは、翻訳では決して伝わらないエロティシズムが薫ってきます。たとえば、鸚鵡やマンゴーとしか訳しようのない単語に、淫靡《いんび》な意味が秘められているとか。ウェブスター『国際辞典』のPornographyの定義は、
「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を、文や絵などで表現したもの」
だそうですが、その意味では『ギータ・ゴーヴィンダ』は、まぎれもないポルノでしょう。しかし、物書き/絵描きの立場すれば、ポルノはひじょうに難しい。素人がやると薄汚くなる。さりげなく表現して、しかも読む者、見る者を満足させるには、たいへんなテクニックが要される。そして、それの極まったポルノは、
——このシーンは、ひょっとしたら、別のことを暗示しているのではないか?
と深読みしたくなるものです。別のこととは、神聖ななにか。
そういう見方をすると、濃密な性愛描写のすべてに美を感じさせる『ギータ・ゴーヴィンダ』は、こんどは一転して崇高な聖典の衣をまとってしまうのです。

作者ジャヤデーヴァについては、12世紀に生き、ベンガルを支配したセーナ朝のラクシュマナセーナ王(在位1179〜1205年)にこの作品を献じた、という以外は、確かなことはなにもわかっていません。
仏教タントラ(後期密教)の詩人であった、とする説も根強くささやかれています。というのは、途中で挟まれるアシュタパディーとよばれる歌謡詩(歌うことを前提とした詩)が、仏教タントラの宗教詩とよく似ており、実際いくつかの仏教詩はジャヤデーヴァの作品であろう、と考えられているからです。そして、彼は『ギータ・ゴーヴィンダ』のなかでも、ブッダを「慈悲の心を持つゆえにヴェーダを非難した」と讃えてさえいるのです。もし、彼がほんとうに仏教徒であれば、この作品には、「ポルノ? 聖典?」以上の秘密が隠されていることになります。
なぜなら、インド仏教最後のパトロンであったパーラ朝を滅ぼしたのが、ラクシュマナセーナ王の父バッラーラセーナ(在位1158〜1179)でした。彼はブッダガヤーの聖なる菩提樹を焼きつくすことまでしています。つまり、セーナ朝は仏教徒にとっては、どれだけ憎んでも余りある怨敵です。
ジャヤデーヴァは、熱心なヴィシュヌ教徒であるラクシュマナセーナ王に接近し、ヴィシュヌ教を破壊する、あるいは仏教タントラの教義に塗り替える目的で、『ギータ・ゴーヴィンダ』を献じたのかもしれません。
そうであったとしても、この作品は、王には拒否できないほど、魅力的でした。
そして、旧来のヴィシュヌ教は、たしかに破壊されてしまいました。『バガヴァッド・ギーター』において欲望を否定した至高神クリシュナが、色情狂のごとく女たちと交わり、ラーダーへの執着に悶々する『ギータ・ゴーヴィンダ』に、王族も庶民もとりこになってしまったのですから。
クリシュナとラーダーの愛の物語は、人間のそれではなく、神への信愛(バクティ)とその恩寵の暗示である、と解釈されるようになり、ヴィシュヌ教は新しい局面を迎えることになるのですが、それがジャヤデーヴァの想定内であったや、否や……?

そんなこんなを、6月8日の名古屋講座でお話したいと思っています。
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