バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

Entries

【カーピー kāphī काफी】伊藤武ちょこっとサンスクリット



ご存知、南インドはコーヒーの産地。
コーヒーを淹(い)れる職人さんは、サモワールで濃いめに出したコーヒー——通常、この時点で砂糖が混ざっている——を大きなカップにとり、ミルクの入ったもうひとつのカップに移し替えることを数回くり返します。そのとき、カップをもった両手をいっぱいに伸ばして、まるで透明のパイプのなかをミルクコーヒーがほとばしるような妙技を見せてくれます。コーヒーやお茶は空気を含ませると美味しくなるのです。
はじめて南インドに行ったときは、そうして泡がいっぱい立った香り高いカフェオレを、皮がパリッと焼けたマサラドーサとともに、いつも幸せな気分でいただきました。
当時(1980年)コーヒーは50パイサ(約15円)、マサラドーサは1ルピー(30円)ぐらいだったと記憶しています。そして最初は、英語でカフィーといっても通じなかったことも。南インドではコーヒーは、カピとかカーピとかいうような発音でようやくわかってもらえます。
さて、コーヒーは、サンスクリットでは——
アプテー編『英梵辞典』で coffee をくると、“kāphī nāma-phalam or
bījam”、つまり「カーピー(kāphī)という名の果実または種子」と出てきます。この辞書は、奥付がないため、いつ編纂されたかはっきりしないのですが、同じアプテー編『梵英辞典』の初版が1873年ですから、同時期の編纂とみてよいでしょう。
そして、「カーピーという名の実または種」という書きかたから、この語がサンスクリットに採用されてまだ間もない外来語であることがうかがえます。
しかし、南インドにコーヒーが導入されたのは、それより2世紀も前のこと。
コーヒーの原産地は、エチオピアかイエメンのどちらかで、長くアラビアがその種子の持ち出しを禁止し、その栽培を独占していたのですが、17世紀にメッカを巡礼したババ・ブータンというインド・ムスリムが監視の目をくぐって、インドに持ち帰りました。1695年のこととされています。彼の種子から生じたコーヒー樹は、南インド一帯の親木になりました。それから140年のち、イギリスがインドでコーヒーの栽培を始めることになります。
なお、サンスクリットの kāphī が南インドの kāpī(タミル語の辞書ではこう綴られている)あるいは英語の coffee
のどちらから採られたのかはわかりませんが、いずれにせよ、もともとの言葉はアラビア語のカーファ(kāfa)。「力」の意味で、コーヒーの実を食べると(最初は飲むのではなく食べた)、不思議な力がわき出してくるに由来します。“カフェイン”もこれを語源とすることはいうまでもありません。

『英梵辞典』には tea(お茶)に当たる語は載っていません。編者のアプテーが生きた19世紀後半、お茶はインドではまだ一般的ではなかったことがわかります。
イギリスがインドで茶を栽培するのは1840年以降のことですが、そこで得られた茶はすべて輸出用で、インドにはまったく出まわりませんでした。
しかし、インド人がお茶を知らなかった、というわけではありません。ヨーロッパ人の記録によると、17世紀のムガル貴族がオランダから輸入した茶を飲んでいた、ということ。のちにオランダは、インドネシアを植民地とし、茶やコーヒーを栽培するが、それが本
格化するのは19世紀になってからです。ならば、ムガル貴族が飲んでいたお茶は、オランダが出島貿易で入手した日本のお茶ということになります。
1927年、第一次世界大戦が終わると、イギリスは生産過剰になった茶の一部のダストティー(くず茶)をインド人自身に消費させることを思いつきます。いわゆる“チャイ”の始まりです。
今日のサンスクリットでは、茶には、ヒンディー語の cāy をサンスクリット風に改めたチャーヤ(cāya)を用いています。
スポンサーサイト

Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

左サイドMenu

プロフィール

インド作家_伊藤武(クルシー)

Author:インド作家_伊藤武(クルシー)

twitter

最新記事

最新トラックバック

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR