バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

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ちょこっとサンスクリット語【マルマン marman मर्मन्】

ちょこっとサンスクリット語【マルマン marman मर्मन्】

マルマ(サンスクリットでは“マルマン”)という語も、アーユルヴェーダ関係者のあいだでは、よく知られるようになりました。インドにおいても……。
そう、インドにおいても。
というのは、ほとんどのインド人にとって“マルマ”は、仏教と同様に、とうの昔に忘れ去られた知識であるからです。中世のムスリムとの果てない闘争のうちに、失伝してしまったのです。現在、アーユルヴェーダの主流は内科の「チャラカ医学」ですが、そこでは外科に属するマルマを学ぶことはありません。
しかし、インド人は、ヨーガと同様に、逆輸入されるかたちでマルマを知った。
それが、中国のツボ・ポイント(経穴)に似ていることを知った。
アキュパンチャー(鍼灸術)は、国際的な評価がひじょうに高い。ならば、マルマも金になる、と察した。
というわけで、最近のインドでは、マルマの専門家が続出し、マルマ本も数多く出版されるようになりました。が、残念ながら、邦訳されているものも含め、それらのほとんどは中国のツボの理論を借用したもので、古代のマルマとは別ものです。
真のマルマを伝えているのは、外科の「スシュルタ医学」にもとづく医療を行なうケーララのカラリ医師と、錬金術的な「シッダ医学」にもとづくタミルのシッダ医師のみ。しかし、カラリ医師のほとんどは身分的にはシュードラであるナイル族であるため、高カーストのアーユルヴェーダ医は立場上、学ぶことができない。シッダ医師は秘密主義に徹している。
英語の本もたくさん出ているアキュパンチャーに学ぶしかなかったのです。
以下に、“マルマン”の意味と用法、定義などを、備忘録的にしるしてみましょう。

マルマン(marman)は、√mṛ(死ぬ)という語根を名詞化したかたちで、原義は「死」そのもの。一般的には、「心臓や脳や肝臓などのダメージを受けると即死にいたる臓器、急所」、転じて「秘密、ものごとの核心、神秘、真実」の意で用いられます。
この語の初出は、最古の『リグ・ヴェーダ』。神々の王インドラは、魔神ヴリトラと戦い、そのマルマンにヴァジュラを投げつけて敵を屠った、とあります。
その後、“マルマン”はヴェーダ文献や叙事詩に頻繁に登場します。これはインド初期の武術家たちが、マルマンの攻撃と防御を修行していたことを物語っています。
現存する古代の武術文献にマルマンにたいする専門的な記述は見当たりませんが、同時期の医学文献『スシュルタ本集』に系統的なマルマンの知識が記載されています。スシュルタは“マルマン”を、
「筋肉・脈管・靭帯・骨・関節(māṃsa-sirā-snāyu-asthi-sandhi)に存在する、プラーナが(
prāṇaḥ)特別なかたちで(viśeṣeṇa)依って立つ(tiṣṭhanti)処」
と定義し、107のマルマンを説明します。それらは、損傷すると、
「即死するもの(sadyaḥ-prāṇahara)、近いうちに死にいたるもの(kālāntara-prāṇahara)、矢などの突き刺さった物を抜くと死にいたるもの(viśalyaghna)、身体障害になるもの(vaikalyakara)、激痛を発するもの(rujakar)」
の5種に分類されます。
これを見ると、スシュルタのいう“マルマン”は、当時の解剖学的知見を集約した、人体の、文字どおりのマルマン(肝心かなめの知識)であることがわかります。
たとえば、「脈管のマルマン」のフリダヤ(心臓)、ニーラー(頸動脈)、ウールウィ(上腕動脈および大腿動脈)は、いずれも出血多量が原因で死にいたる急所。アパラーパ(脇窩)には血管に沿って複雑な神経叢があるため、今日の外科手術でもメスを入れるのは危険な場所とされています。
そうした「プラーナが依って立つマルマン」の知識は、前記した特殊な医学やヨーガを生み出しました。しかし、これも前述したとおり、極度の秘密主義ゆえ、真伝はほとんど知られていません。
今回の満月通信「サンスクリットで鍼灸を」も、あわせてお読みください。

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【コラム】 サンスクリットで鍼灸(しんきゅう)を

コラム 【サンスクリットで鍼灸(しんきゅう)を】

10年ほど前のアーユルヴェーダ総会でのこと——
「チャイナのツボ・ポイント(経穴)とメリディエン(経絡)は、わが国のマルマとナーディーのコピーである。ブッディズムとともに、インドからチャイナへと伝わったのである!」
インドから招かれた「マルマの専門家」なるバラモンのドクターが、意気揚々と発表します。
「したがって、メリディエンもインドが起源。インドのものである!」
(おいおい、それはないだろ。ツボはともあれ、経絡は中国が起源だ。2000年前の漢代の医者たちが、囚人を生体解剖して、考え出したんだ)
そうケチをつけてやろうと、ガンバって英語の抗議文を考えていたのですが、控え室でドクターから、
「イトーセンセの講演はすばらしかった(わたしも「マルマとタントラのヨーガ」という発表をした)。インド人もビックリね」
と先にいわれ、ヨイショに弱いわたしは、まあいいか、と腰砕けになってしまいました。

そのときに貰ったドクターのマルマ本——ずっと放ったらかしにしていたのですが、最近ようやく読んでみました。
「経絡だけではなく、アキュパンチャー(鍼灸術)もインドが起源である。ちゃんとヴェーダに書いてあるが、読み方がまちがっているので、誰も知らないのだ」
という論調で、うさん臭さ満載なのですが、こじつけもここまでくれば、見事というほかはない。
ここでいうヴェーダとは、アーユルヴェーダの外科医典『スシュルタ本集』のこと。
スシュルタは、ダマニとシラーという脈管についてしるしています。通常は大小の血管やリンパ管とされていますが、ドクターの「正しい読み方」によると、ダマニは経絡で、シラーは経穴とのこと。シラーは単独で、またはいくつか集合して、マルマと称される。
また、経絡には、ルートにしたがい、心経、胆経、肝経などの「12の経」と督脈、任脈の「2つの脈」がありますが、心経はフリダヤ・ダマニ(心臓の管)、胆経はピッターシャヤ・ダマニ(胆囊の管)、肝経はヤクリト・ダマニ(肝臓の管)、督脈はシュクラ・ナーディー(精液脈管)、任脈はアールタヴァ・ナーディー(快感脈管)という梵名を駆使しています。
鍼(はり)はシラー・ヴェーダナ(シラーを貫くこと)。この語は『スシュルタ』に頻繁に見られますが、通常は「微細な脈管を傷つけること」と解釈されます。
灸(きゅう)はアグニカルマン(火の処置)。病変した組織を熱した鉄片などで焼く「焼灼法」と考えられていますが、ドクターは「灸である」と主張してゆずりません。

『スシュルタ』からの(確かにそのようにも解釈できる)サンスクリットの引用文が絶妙で、読んでいるうちに、ひっとしたらドクターのいうことが正しいのかも、という気にさえなってきます。
しかし、経絡は、木火土金水の陰陽五行説にもとづく、きわめて中国的な発想です。木=肝臓と胆囊、火=心臓と心包、土=脾臓と胃、金=肺臓と大腸、水=腎臓と膀胱……などと関連づけて、あの精緻な気のルートが出来上がりました。
マルマを結ぶライン——ナーディーは、これとは異なる発想です。心臓または臍(あるいは臍下のカンダ)から、「人体というプラ(城)の門」である両目、両耳、両鼻孔、口、尿道口、肛門、頭頂孔に向けてはり巡らされたプラーナの通り道。
そして、中国に鍼灸があるように、インドの伝統的なマルマ療法には、身体に浸透する薬用オイルなどを用いてマルマに働きかける精妙なマッサージ術があります。
もっとも、その伝承者が低カーストであるために、高カーストのアーユルヴェーダ医はまったく無視しているのですが。
ドクターの説は、残念ながら、あやまりといってよい。しかし、
「鍼灸で最大の効果を得るためには、その前に、経絡に沿ったスネーハナ(注油法)とスウェーダナ (発汗法)を行なうべきである」
などという記述もあり、「インド起源説」を声高に叫ぶのでなければ、ふたつの伝統医学の融合をはかるすぐれた媒介になりうる、と思いました。
サンスクリットで鍼灸を学ぶ、というのも面白いですし。

【ちょこっとサンスクリット】シャリーラ śarīra शरीर




日に日に秋めいてまいります。米に代表される実りの秋の到来です。
おコメのことをシャリといったりします。これは、仏舎利(ぶっしゃり)に由来する言葉とされています。
すなわち、涅槃に入られたおシャカさまの遺体は荼毘(だび)に付され、その遺骨は細かく、そう、米粒大に砕かれて、仏教の伝播とともに各地に運ばれ、それを納める仏塔が築かれました。

さて、舎利は、「身体」を意味するサンスクリットの“シャリーラ”の音訳。ヨーガ文献には、「身体」をあらわす語として、タヌ(tanu)、カーヤ(kāya)、デーハ(deha)もよく出てきますが、それぞれニュアンスが異なります。そして、最初期の『リグ・ヴェーダ』から使われてきた、いちばん古い言葉がシャリーラです。
√śṝ(殺す/壊す)を語根とするこの語は、「死にゆくもの / 壊れゆくもの」が原意で、「肉体」や「死体」をさすことが多いようです。
また、人の体が多くの骨からなることから、複数形のシャリーラーニ(śarīrāṇi)はしばしば「骨」の意味でも用いられます。「仏舎利」というときのシャリは、この複数形のほうでしょう。
ヨーガの「屍体のポーズ」を“シャヴァ・アーサナ”といいますが、このシャヴァ(śava)もシャリーラに関連する言葉です。ヴェーダ文献に「プラーナが去ると(死ぬと)、シャリーラは膨らむ(śvayati)」とあり、√śvi(膨らむ)という語根からśava(死体)という名詞が造られたことがうかがわれます。
ヨーガでは、ストゥーラ・シャリーラ(sthūla-śarīra;粗大身)、スークシュマ・シャリーラ(sūkṣma-śarīra;微細身)という語もよく使われますが、いずれにせよシャリーラは死んだ、あるいはやがては滅びる「はかなき身体」をさしているようです。
対して、“タヌ”は、“タントラ”(tantra)と同語根の√tan(広がる/拡げる)に派生する、血の通った、生命の充満する「喜ばしい身体」を意味します。

いっぽう、“カーヤ”の語根は、√ci(集まる)。ciがいかにしてkāyaになるかについては複雑な説明を要するため、ここでは省略させていただきます。
ともあれ、血や肉や骨や、心や魂などの「集合体としての身体」がカーヤ。肉体というより、もっと広い意味での「存在、ありかた」をさす場合には、この語を用います。
大乗仏教では、仏の3種類の身のあり方をトリカーヤ(tri-kāya;「三身」)といいます。
すなわち、大日如来のごとき宇宙の真理そのものとしてのダルマ・カーヤ(dharma-kāya;「法身」)。
阿弥陀仏のごとき修行して成仏したサンボーガ・カーヤ(saṃbhoga-kāya;「報身」)。
おシャカさまのごとき人間のブッダとしてこの世に現われるニルマーナ・カーヤ(nirmāṇa-kāya;「応身」)。
タントラ時代には、ヴァジュラ・カーヤ(vajra-kāya;「金剛身」)やサハジャ・カーヤ(sahaja-kāya;「倶生身」)といった永遠不滅のカーヤも発想されました。
具体的なシャリーラに比べると「抽象的な身体」です。

“デーハ”は、√dih(塗る)が語根。「カルマに塗(まみ)れた身体」のニュアンスで、グプタ時代以降の哲学で多用される比較的新しい言葉です。
デーヒン(dehin;「デーハを有するもの」すなわち個々の魂)という語と対で用いられます。

        ※

おシャカさまのシャリーラーニがいかに貴いものであるにしても、それを口に入れるおコメのたとえにするというのは、ちょっと異様な感じもしないではありません。
じつは、サンスクリットには、米そのものを表わすシャーリ(śāli)という言葉のあることもつけ加えておきます。

【コラム】バウル




「バウルの修行に行きますので、シヴァ・サンヒター講座にはもう来られません」
ちょうど1年ほど前、そんなことをおっしゃるかたがいました。
「え、バウル、まじ?」
仰天しました。インドに、ヨーガ、音楽、ダンス、医学、料理、武術を学びに行く——というのは、いまや珍しくない。しかし、まさか、バウルをやろうなんてひとが現われるなんて……。

バウルは、いってみれば、詩をうたうサードゥ。インドの西ベンガル州とバングラデシュ(東ベンガル)にまたがって存在します。とうぜん、インドのバウルはヒンドゥー、バングラのバウルはムスリムであり、ヒンドゥー・バウルはヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ教徒)を名のっていますが、ヴィシュヌ正統派からみれば、まったくの異端ということになりましょう。
じっさい、かれらは「ヴァイシュナヴァ・サハジヤー」にカテゴライズされていますが、サハジヤーまたはサハジャは、ヴィシュヌ教とは180度相反するコンセプトなのですから。
☞ http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-83.html
日本の空海と同じころに生きた仏教タントラの大成就者サラハが打ち出した「生まれもった身体に、すでに悟りが具わっている」というのがサハジャ思想で、これが後期密教やハタ・ヨーガの推進力になっていきます。
サラハやルーイーやカーンハといった仏教タントラの大成就者は、おのれの悟りを詩をうたうことで表現しました。バウルはそうした「歌う密教行者」の直系の子孫なのです。仏教詩人がなぜヴィシュヌ教詩人に、あるいはムスリムの吟遊詩人になったかの説明は、ここでは割愛させていただきます。ともあれ、バウルは、ヴィシュヌ教とはいっても、

♪わが愛しき神(クリシュナ) おお わが神 あなたにまみえたい
 あなたとともにいたい おお わが神 いつの日か あなたのおそばにいたい

と(もっとも、これはジョージ・ハリスンの『マイ・スイート・ロード』なのですが)、神への愛を切々と訴えかけるわけでは決してない。バウルの詩にクリシュナやラーダーの名が織り込まれていたとしても、それは、おのれ自身のアートマンとシャクティをあらわす記号にほかなりません。
かれらが詠うのは、おのれの内に広がる宇宙の情景。プラーナやチャクラやクンダリニーがくり広げる神秘のドラマ。つまり、タントラであり、ハタ・ヨーガなのです。
バウル(Baul)という言葉は、サンスクリットのヴァートゥラ(Vātula)のベンガル訛りで、「風狂者」と訳されましょう。この場合の風(ヴァータ)はプラーナのことであり、プラーナを操作するハタ・ヨーガを行じて、イカレてしまった(悟った)人がヴァートゥラ。
『シヴァ・サンヒター』Ⅲ‐70は、ハタ・ヨーガの成就者のことを、このように述べています。
「8ダンダ(3時間12分)、ヨーギンの風(プラーナ)が不動となり得たならば、賢き者は、みずからの力により、ヴァートゥラのごとく親指の上に[全宇宙を]安立しよう」
ヴァートゥラを、現代の「アストロノーツ」(宇宙飛行士)と対比させて、「サイコノーツ」(霊的飛行士)と呼んでもいいかもしれません。前者が物質的リアリティの母胎たる「外なるスペース」を勇敢に調査する物質主義者・科学者・冒険家であるとすれば、後者は「内なるスペース」に深く沈潜し、潜在意識に住まう天使や悪魔と遭遇し、これと対峙(たいじ)するのです。

さて、バウルになった佐藤友美さんの一連のイベントが進行中です。10月8日は、わたしがお相手させていただきます。パフォーマンスもあり。ぜひ、足をお運びください。

10月8日(日) 13:00〜15:00
パルバティ・バウル来日ツアー2018「バウルの響き」関連企画
伊藤武先生をお招きして:「バウルと女神、そしてヨーガ」
聞き手:佐藤友美(パルバティ・バウルの弟子)
参加費1000円 定員15名
開場:Deepdan(東京・池ノ上)【http://www. deepdan.com/】
予約は【echoesofbaul@gmail.com】まで
ホームページ:【www.echoesofbaul.info】

【ちょこっとサンスクリット】プラナヴァ praṇava प्रणव


プラナヴァとは、聖音Oṃのこと。pra-√nu(唸る/鳴り響く/反響する/ハミングする/讃える)に由来する語です。
praには「最初の、最高の」などの意味がありますから、「宇宙創造の最初に鳴り響いた音」にして、「神を讃える最高の音」。
シヴァ神の種字フーン(Hūṃ)とシャクティの種字フリーン(Hrīṃ)も“プラナヴァ”とよばれますが、ここではOṃについて書きます。
Oṃは、慣例的に“オーム”ととしるされることが多いのですが、ṃは鼻音——文字どおり口を閉ざし鼻から出す音なので、「ん」にしか聞こえません。ですから、Oṃをカナ表記するのであれば、“オーン”のほうがよろしいでしょう。
Oṃはデーヴァナーガリーでは、ओंまたはॐとしるされ、写本を見ても両方が出てきますが、若干発音が異なります。
ओंのビンドゥ(文字の右上の・)は、しっかり口を閉じた鼻音(アヌスワーラ)。
ॐは正確にローマナイズするのであれば、Om̐。チャンドラ(三日月形の꒡)のついたビンドゥで、口を完全には閉じない鼻音(アヌナーシカ)。前者よりもやわらかな響きになります。
どちらかを選ぶかは好みのほか、それぞれに象徴的な意味があるようです。

象徴といえば、OṃのOはAとUが融合した二重母音ですから、OṃはAuṃ(アウン)に置換され、このA・U・Mの3字が、
3つのものから成るあらゆるものの象徴となり得ます。
A・U・Mが、「ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ」の三大神を表わすことは、どなたもご存知でしょう。
ほかにも、「創造・維持・破壊」の行為、「身体・精神・霊魂」からなる人間、「行為・知識・意志」の三シャクティ(力)、「
サットワ・ラジャス・タマス」の三グナ、「満ちゆく月・満月・欠けゆく月」の月の三相、「地・空・天」の三界、「腹・胸・頭」の身体の3つの腔(こう)などなど。

『ヨーガ・スートラ』にいわく。
—— tasya vācakaḥ praṇavaḥ. taj-japas tad-artha-bhāvanam.(Ⅰ‐27, 28)
「かれ(自在神)の象徴語はプラナヴァ。その念誦は、その意味するもの(自在神)への祈念」
そして、自在神への祈念であるOṃを誦えることで、無想三昧、つまり独存(=解脱)に到ることができる(Ⅰ‐23)、とあります。
「え、オーンと誦えるだけで、イケちゃうの?」
と思ってしまいますが、もちろんただ唱えてもダメ。各セクトに秘義があります。そのひとつ、カシミール・シヴァ派(トリカ)の聖典によると——
「腹・胸・頭」の身体の3つの腔にA・U・Mを響かせるように、アウンを発声する。すなわち、腹でA、胸でU、頭でM。時間は1字につき1マートラー(約1秒)、アウンで3マートラー。
これを延々とくり返します。頭蓋骨内部の空間にMを響かせるときはアヌナーシカ。つまり、口を完全には閉ざさない鼻音。完全に閉じてしまうと、そこで「終わってしまう」からです。
「腹・胸・頭」の3つの腔にA・U・Mを響かせる(もちろん集中する)のは行者の努力によりますが、やがて、努力を超越したところで「それ」が起きる。
まず、眉間の一点が光り出し、そこにॐが生じる——自然に鳴り出すということです。
光とॐはじょじょに高度を上げていく。額の奥、頭頂の泉門(せんもん)あたりへと。このとき、行者は、時間と空間を超越する神秘体験を得る。
光とॐは、身体を離れ、頭上の空間に移る。そして、行者の意識は、そのなかに没入してゆく。
「これがパタンジャリ(『ヨーガ・スートラ』)にいう、プラナヴァ念誦による無想三昧である」
と聖典にしるされています。
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