バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

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【ちょこっとサンスクリット】シャリーラ śarīra शरीर




日に日に秋めいてまいります。米に代表される実りの秋の到来です。
おコメのことをシャリといったりします。これは、仏舎利(ぶっしゃり)に由来する言葉とされています。
すなわち、涅槃に入られたおシャカさまの遺体は荼毘(だび)に付され、その遺骨は細かく、そう、米粒大に砕かれて、仏教の伝播とともに各地に運ばれ、それを納める仏塔が築かれました。

さて、舎利は、「身体」を意味するサンスクリットの“シャリーラ”の音訳。ヨーガ文献には、「身体」をあらわす語として、タヌ(tanu)、カーヤ(kāya)、デーハ(deha)もよく出てきますが、それぞれニュアンスが異なります。そして、最初期の『リグ・ヴェーダ』から使われてきた、いちばん古い言葉がシャリーラです。
√śṝ(殺す/壊す)を語根とするこの語は、「死にゆくもの / 壊れゆくもの」が原意で、「肉体」や「死体」をさすことが多いようです。
また、人の体が多くの骨からなることから、複数形のシャリーラーニ(śarīrāṇi)はしばしば「骨」の意味でも用いられます。「仏舎利」というときのシャリは、この複数形のほうでしょう。
ヨーガの「屍体のポーズ」を“シャヴァ・アーサナ”といいますが、このシャヴァ(śava)もシャリーラに関連する言葉です。ヴェーダ文献に「プラーナが去ると(死ぬと)、シャリーラは膨らむ(śvayati)」とあり、√śvi(膨らむ)という語根からśava(死体)という名詞が造られたことがうかがわれます。
ヨーガでは、ストゥーラ・シャリーラ(sthūla-śarīra;粗大身)、スークシュマ・シャリーラ(sūkṣma-śarīra;微細身)という語もよく使われますが、いずれにせよシャリーラは死んだ、あるいはやがては滅びる「はかなき身体」をさしているようです。
対して、“タヌ”は、“タントラ”(tantra)と同語根の√tan(広がる/拡げる)に派生する、血の通った、生命の充満する「喜ばしい身体」を意味します。

いっぽう、“カーヤ”の語根は、√ci(集まる)。ciがいかにしてkāyaになるかについては複雑な説明を要するため、ここでは省略させていただきます。
ともあれ、血や肉や骨や、心や魂などの「集合体としての身体」がカーヤ。肉体というより、もっと広い意味での「存在、ありかた」をさす場合には、この語を用います。
大乗仏教では、仏の3種類の身のあり方をトリカーヤ(tri-kāya;「三身」)といいます。
すなわち、大日如来のごとき宇宙の真理そのものとしてのダルマ・カーヤ(dharma-kāya;「法身」)。
阿弥陀仏のごとき修行して成仏したサンボーガ・カーヤ(saṃbhoga-kāya;「報身」)。
おシャカさまのごとき人間のブッダとしてこの世に現われるニルマーナ・カーヤ(nirmāṇa-kāya;「応身」)。
タントラ時代には、ヴァジュラ・カーヤ(vajra-kāya;「金剛身」)やサハジャ・カーヤ(sahaja-kāya;「倶生身」)といった永遠不滅のカーヤも発想されました。
具体的なシャリーラに比べると「抽象的な身体」です。

“デーハ”は、√dih(塗る)が語根。「カルマに塗(まみ)れた身体」のニュアンスで、グプタ時代以降の哲学で多用される比較的新しい言葉です。
デーヒン(dehin;「デーハを有するもの」すなわち個々の魂)という語と対で用いられます。

        ※

おシャカさまのシャリーラーニがいかに貴いものであるにしても、それを口に入れるおコメのたとえにするというのは、ちょっと異様な感じもしないではありません。
じつは、サンスクリットには、米そのものを表わすシャーリ(śāli)という言葉のあることもつけ加えておきます。
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【コラム】バウル




「バウルの修行に行きますので、シヴァ・サンヒター講座にはもう来られません」
ちょうど1年ほど前、そんなことをおっしゃるかたがいました。
「え、バウル、まじ?」
仰天しました。インドに、ヨーガ、音楽、ダンス、医学、料理、武術を学びに行く——というのは、いまや珍しくない。しかし、まさか、バウルをやろうなんてひとが現われるなんて……。

バウルは、いってみれば、詩をうたうサードゥ。インドの西ベンガル州とバングラデシュ(東ベンガル)にまたがって存在します。とうぜん、インドのバウルはヒンドゥー、バングラのバウルはムスリムであり、ヒンドゥー・バウルはヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ教徒)を名のっていますが、ヴィシュヌ正統派からみれば、まったくの異端ということになりましょう。
じっさい、かれらは「ヴァイシュナヴァ・サハジヤー」にカテゴライズされていますが、サハジヤーまたはサハジャは、ヴィシュヌ教とは180度相反するコンセプトなのですから。
☞ http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-83.html
日本の空海と同じころに生きた仏教タントラの大成就者サラハが打ち出した「生まれもった身体に、すでに悟りが具わっている」というのがサハジャ思想で、これが後期密教やハタ・ヨーガの推進力になっていきます。
サラハやルーイーやカーンハといった仏教タントラの大成就者は、おのれの悟りを詩をうたうことで表現しました。バウルはそうした「歌う密教行者」の直系の子孫なのです。仏教詩人がなぜヴィシュヌ教詩人に、あるいはムスリムの吟遊詩人になったかの説明は、ここでは割愛させていただきます。ともあれ、バウルは、ヴィシュヌ教とはいっても、

♪わが愛しき神(クリシュナ) おお わが神 あなたにまみえたい
 あなたとともにいたい おお わが神 いつの日か あなたのおそばにいたい

と(もっとも、これはジョージ・ハリスンの『マイ・スイート・ロード』なのですが)、神への愛を切々と訴えかけるわけでは決してない。バウルの詩にクリシュナやラーダーの名が織り込まれていたとしても、それは、おのれ自身のアートマンとシャクティをあらわす記号にほかなりません。
かれらが詠うのは、おのれの内に広がる宇宙の情景。プラーナやチャクラやクンダリニーがくり広げる神秘のドラマ。つまり、タントラであり、ハタ・ヨーガなのです。
バウル(Baul)という言葉は、サンスクリットのヴァートゥラ(Vātula)のベンガル訛りで、「風狂者」と訳されましょう。この場合の風(ヴァータ)はプラーナのことであり、プラーナを操作するハタ・ヨーガを行じて、イカレてしまった(悟った)人がヴァートゥラ。
『シヴァ・サンヒター』Ⅲ‐70は、ハタ・ヨーガの成就者のことを、このように述べています。
「8ダンダ(3時間12分)、ヨーギンの風(プラーナ)が不動となり得たならば、賢き者は、みずからの力により、ヴァートゥラのごとく親指の上に[全宇宙を]安立しよう」
ヴァートゥラを、現代の「アストロノーツ」(宇宙飛行士)と対比させて、「サイコノーツ」(霊的飛行士)と呼んでもいいかもしれません。前者が物質的リアリティの母胎たる「外なるスペース」を勇敢に調査する物質主義者・科学者・冒険家であるとすれば、後者は「内なるスペース」に深く沈潜し、潜在意識に住まう天使や悪魔と遭遇し、これと対峙(たいじ)するのです。

さて、バウルになった佐藤友美さんの一連のイベントが進行中です。10月8日は、わたしがお相手させていただきます。パフォーマンスもあり。ぜひ、足をお運びください。

10月8日(日) 13:00〜15:00
パルバティ・バウル来日ツアー2018「バウルの響き」関連企画
伊藤武先生をお招きして:「バウルと女神、そしてヨーガ」
聞き手:佐藤友美(パルバティ・バウルの弟子)
参加費1000円 定員15名
開場:Deepdan(東京・池ノ上)【http://www. deepdan.com/】
予約は【echoesofbaul@gmail.com】まで
ホームページ:【www.echoesofbaul.info】

【ちょこっとサンスクリット】プラナヴァ praṇava प्रणव


プラナヴァとは、聖音Oṃのこと。pra-√nu(唸る/鳴り響く/反響する/ハミングする/讃える)に由来する語です。
praには「最初の、最高の」などの意味がありますから、「宇宙創造の最初に鳴り響いた音」にして、「神を讃える最高の音」。
シヴァ神の種字フーン(Hūṃ)とシャクティの種字フリーン(Hrīṃ)も“プラナヴァ”とよばれますが、ここではOṃについて書きます。
Oṃは、慣例的に“オーム”ととしるされることが多いのですが、ṃは鼻音——文字どおり口を閉ざし鼻から出す音なので、「ん」にしか聞こえません。ですから、Oṃをカナ表記するのであれば、“オーン”のほうがよろしいでしょう。
Oṃはデーヴァナーガリーでは、ओंまたはॐとしるされ、写本を見ても両方が出てきますが、若干発音が異なります。
ओंのビンドゥ(文字の右上の・)は、しっかり口を閉じた鼻音(アヌスワーラ)。
ॐは正確にローマナイズするのであれば、Om̐。チャンドラ(三日月形の꒡)のついたビンドゥで、口を完全には閉じない鼻音(アヌナーシカ)。前者よりもやわらかな響きになります。
どちらかを選ぶかは好みのほか、それぞれに象徴的な意味があるようです。

象徴といえば、OṃのOはAとUが融合した二重母音ですから、OṃはAuṃ(アウン)に置換され、このA・U・Mの3字が、
3つのものから成るあらゆるものの象徴となり得ます。
A・U・Mが、「ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ」の三大神を表わすことは、どなたもご存知でしょう。
ほかにも、「創造・維持・破壊」の行為、「身体・精神・霊魂」からなる人間、「行為・知識・意志」の三シャクティ(力)、「
サットワ・ラジャス・タマス」の三グナ、「満ちゆく月・満月・欠けゆく月」の月の三相、「地・空・天」の三界、「腹・胸・頭」の身体の3つの腔(こう)などなど。

『ヨーガ・スートラ』にいわく。
—— tasya vācakaḥ praṇavaḥ. taj-japas tad-artha-bhāvanam.(Ⅰ‐27, 28)
「かれ(自在神)の象徴語はプラナヴァ。その念誦は、その意味するもの(自在神)への祈念」
そして、自在神への祈念であるOṃを誦えることで、無想三昧、つまり独存(=解脱)に到ることができる(Ⅰ‐23)、とあります。
「え、オーンと誦えるだけで、イケちゃうの?」
と思ってしまいますが、もちろんただ唱えてもダメ。各セクトに秘義があります。そのひとつ、カシミール・シヴァ派(トリカ)の聖典によると——
「腹・胸・頭」の身体の3つの腔にA・U・Mを響かせるように、アウンを発声する。すなわち、腹でA、胸でU、頭でM。時間は1字につき1マートラー(約1秒)、アウンで3マートラー。
これを延々とくり返します。頭蓋骨内部の空間にMを響かせるときはアヌナーシカ。つまり、口を完全には閉ざさない鼻音。完全に閉じてしまうと、そこで「終わってしまう」からです。
「腹・胸・頭」の3つの腔にA・U・Mを響かせる(もちろん集中する)のは行者の努力によりますが、やがて、努力を超越したところで「それ」が起きる。
まず、眉間の一点が光り出し、そこにॐが生じる——自然に鳴り出すということです。
光とॐはじょじょに高度を上げていく。額の奥、頭頂の泉門(せんもん)あたりへと。このとき、行者は、時間と空間を超越する神秘体験を得る。
光とॐは、身体を離れ、頭上の空間に移る。そして、行者の意識は、そのなかに没入してゆく。
「これがパタンジャリ(『ヨーガ・スートラ』)にいう、プラナヴァ念誦による無想三昧である」
と聖典にしるされています。
*CommentList

【コラム】開け、シヴァ・サンヒター!


ブッダは深遠な空の思想をナーガ(竜)の一族に託した——という伝説があります。人間たちにそれを十全に受け止める用意ができていなかったからです。
ナーガは空の思想を綴った経典を南インドの仏塔に封印しました。600年の間、誰もその扉を開けることができませんでした。
しかしナーガールジュナが現われて、
「開けマスタード!」
を一声すると、巌のような扉がスルスルと開きました。こうして世に出たのが大乗仏教だということです。『アラビアン・ナイト』の「アリババ」の譚に似てますが、イスラムは説話や数学をはじめインド文化から多大な影響を受けていますから、こちらのほうが先でしょう。

『シヴァ・サンヒター』の講義(2016年7月〜2017年6月)を終えて、ちょっとした「シヴァ・サンヒター・ロス」に陥っています。いやあ、楽しかった。訳し、解釈しているときは。情報が高度にコード(暗号)化されていて、それを解読するときは知的悦楽の境に遊ぶことができました。
しかし、この聖典を最初にざっと訳したときは、途方に暮れてしまいました。
あまりに漠然としている。捕えどころがない。タントラかと思えば、ヴェーダーンタが出てくる。タントラとヴェーダーンタはまったく異なる哲学なのだ。
そのうえ、ハタ・ヨーガが絡んでくるが、ハタの本家、ナータ派のそれとは別ものだ。
脈絡がない。いくつもの思想や行法を恣意にコレクションしたのだろうか……?
いや、そんなことはなかろう。読み解くうえでの、キーワードが、ツールが、「開けマスタード!」みたいな鍵となるものがきっとあるのだ。
鍵は、やがて見つかりました。そして、それを使うと、『シヴァ・サンヒター』の重い知識の扉が簡単に開きました。
すべてが有機的につながり、雄弁に語りはじめたのです。
鍵が何であるかは、講義を受けられたかたはご存知ですが、ここでは云いますまい。しばらく楽しめるネタですから。
そして、ネットで、Shiva Samhita,
Śiva-saṃhitāなどで検索してみても、この鍵には、まだ誰も気づいていないようです。知る人も、秘義に属することなので、おおっぴらには発表できないのでしょう。『シヴァ・サンヒター』を英訳した人も、知りえなかった——

20世紀YOGAがいかにして成立したかは、すでに書きました。
http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-100.html
クリシュナマチャリヤやクヴァラヤーナンダらの著名なグルたちは、ナータ派のハタ・ヨーガとは異なるHATHA-YOGAを創作したわけですが、そのさい大いに参考にされたのが、19世紀後半にインド人の手によってサンスクリットから初めて英訳されたハタ文献——『シヴァ・サンヒター』だったのです。
この英訳はネットで全文を見ることができますが、なんと誤訳の多いこと。読み解く鍵を得られなかったため、解釈もおかしい。もちろん、それからの重訳である邦訳も、同じ誤りを重ねることをまぬがれません。
そして、20世紀YOGAは、この不完全な情報がベースになっていることがわかります。当時は、シヴァ派やナータ派関連の資料が発表されていなく、ある意味避けられないことだったのです。
しかし、21世紀に入って、それまで謎に包まれていたタントラやヨーガのサンスクリット文献がつぎつぎと発表されるようになり、わたしも前述の鍵となるものの知識もそれらから得ることができました。

『シヴァ・サンヒター』の講義録は、YAJ版『図説シヴァ・サンヒター』として、一冊にまとめました。
ヨーガの秘義中の秘義、ヴァジュローリーも詳細に説明しています。英訳や邦訳では外された部分で、これが日本ではサンスクリットからの初めての直訳と解説になると
思います。
333ページで9000円。ご興味あるかたは、このメールでお求めください。

【ちょこっとサンスクリット】ラサ rasa रस


サンスクリットには、たいへん多くの意味を有する単語がたくさんあります。そのなかでも、もっとも厄介な言葉のひとつがラサ(rasa)。わたしの用いているApte編『梵英辞典』には、
(1) 樹液。 (2) 液体。 (3) 水。 (4) 酒。 (5)[水薬/大麻などを]一服。 (6) 味。 (7) チャトニーのごとき薬味。(8) 味わう対象。 (9) 好み。 (10) 愛情。 (11) 歓喜。 (12) 魅力。 (13) 衝動。 (14) 情趣。 (15) エッセンス。 (16) 乳糜。 (17) 精液。 (18) 水銀。 (19) 毒。 (20) 岩塩。 (21) サトウキビの汁。 (22) 乳。 (23) バター油(ギー/醍醐)。 (24) 甘露(アムリタ/ソーマの搾り汁)。 (25) 澄んだスープ。 (26) 数字の6の象徴的表現。 (27) 汁気の多い未熟なタマネギ。 (28) 没薬。 (29) 黄金。 (30) 溶解した金属。 (31) ラサータラ(地下世界の名)。 (32) 舌。 (33) ヴィシュヌ派における心の性向。
……と、なんと33もの意味がしるされています。
そして、そのいくつかは、医学や錬金術やヨーガや料理などの分野で、それぞれキーワードとなるものです。
(6) のラサ(味)は、医学や料理でいう、甘・酸・塩・辛・苦・渋の6つの味。
(14) のラサ(情趣)は、芸術作品を鑑賞するさいに感ずる、愛・笑・哀・怒・猛・驚・厭・奇・平安の9つの美的な喜び。
(16) のラサ(乳糜)とは、医学でいう7つの身体構成成分の第一要素。
(17) のラサ(精液=性的エネルギー)がヨーガで、(18) のラサ(水銀)が錬金術で重視される語であることはいうまでもありません。
また、タミル料理のラッサム(rasam)は、(25) のラサ(澄んだスープ)に由来します。
サンスクリット文献を読んでいると、文脈からいずれのラサか見当がつきますが、なかにはいくつかの意味あいを兼ねそなえている場合もあります。たとえば、ハタ・ヨーガ文献におけるラサ——
『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』4章26節に、
 rasasya manasaś caiva cañcalatvaṃ svabhāvataḥ,
 raso baddho mano baddhaṃ kiṃ na siddhyati bhūtale.
とあります。すなわち、
「ラサと意(マナス)の性質は、〈動〉である。ラサを縛し、意を縛すならば、この世において成就しえぬことなどあろうか?」
この場合のラサは通常「精液」と訳されますが、錬金術における「水銀」のニュアンスも含んでいます。ハタ・ヨーガはじつは錬金術の原理にもとづいており、卑金属を黄金に変換
(loha-vedha)するのと同様の法で、肉体は霊的身体に変換(deha-vedha)することができる、とされているからです。そして、ハタ・ヨーガにおいて、錬金術の水銀と同等のはたらきを示すものが精液なのです。
となると、rasa=精液、と訳すのは不十分で、rasaはラサと音を写すしかないのではないか、という気になってきます。
多くの意味を有する単語は、それらの意味のすべてを統べるコアとなる意味を把握することが肝要となります。それには、まず語根に当たること。そして、文献上の最初の用法を探ること。
rasaの語根は√ras(味わう)。すなわち、ラサの原意は「味/味わうもの」。
また、最初の用法は、『リグ・ヴェーダ』に現われる (24) のラサ(ソーマの搾り汁)。すなわち、ラサの原イメージは、「汁/エッセンス/心を急激に変容させるもの」。
要するに、ラサとは、水・液汁・食物などの「味わえるもの」であり、「ものごとの精髄」であり、「心や物質を急激に変容されるもの」ということになります。

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プロフィール

インド作家_伊藤武(クルシー)

Author:インド作家_伊藤武(クルシー)
 
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