バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

Entries

【ちょこっとサンスクリット】ニルワーチャナ nirvācana



インド最後の仏教王国、パーラ朝。8世紀後半から12世紀後半の約400年にわたって、ベンガルとビハールを中心とする東インドを支配した王朝です。
後期密教(仏教タントラ)が興ったのも、「84人のシッダ(成就者)」が活躍したのも、そしてシッダのひとりのゴーラクシャがハタ・ヨーガを大成したのも、この王国内でのことでした。
ジャワのボロブドゥールやカンボジアのアンコール・ワットの手本となったピラミッド型の寺院を最初に建立したのも、この王国でした。
そんなこともあり、パーラ朝のことをあれこれ調べていたのですが、いちばん意外に思ったことは、この王朝の初祖ゴーパーラが、武力によって王位を得たのではなく、
——公式な選挙によって、王に選出された。
ということです。
8世紀、ベンガル地方は、群雄の割拠する無政府状態にありました。それでは、他国と商取引ができない。だいいち、いつ戦争にまきこまれて命を落とすことになっても不思議はない。ということで、ベンガルの名士たちが集い、群雄のいずれかを正式な王に据えるための選挙を実施したのです。
選ばれたのがゴーパーラ。他の群雄たちも、おとなしくその結果にしたがい、ゴーパーラの臣下になった——と聞けば、ウソ、そんなことあり得ない、という気にもなりますが、インドにはヴェーダ時代から、選挙とその結果を尊ぶ伝統があったのです。
「選挙」にあたる梵語には、nir-√vac(名を告げる)に派生するニルワーチャナ(nirvācana)のほか、ニヨージャナ(niyojana;「指名」)、ヴァラナ(varaṇa;「選択」)などがあります。

「インドは民主主義の母国である」
アメリカの歴史家、ウィル・デュラントの言葉です。
インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』は、君主制の国と民主制の国があったことを伝えています。
わたしは『リグ・ヴェーダ』の舞台はインダス文明であったと考えていますが、それが正しければ、インダスの都市国家には、その元首に君主(王)をいただくものと、民衆が権力を握るものの、2つの政治形態があったことになります。
「民主制」に相当する梵語は、サバー(sabhā;「輝ける者[の集まり]」)、サミティ(samiti;「ともに行く者[の集まり])など。前者には「
選挙によってサバーの座にすわる権利を与えられた者たちは、それゆえに輝いている」、後者には「国民が議会制民主主義にのっとり、ともに政治に携わる」というニュアンスが籠められています。
ポスト・ヴェーダ時代になると、民主制は、国家元首を国民から選ぶ共和制に移行します。君主制の国家に対抗するには、強力なリーダーが必要になる、ということでしょう。
「共和制」に相当する梵語は、ガナ(gaṇa)、サンガ(saṅgha)。ともに「多数、集団」が原意です。
ガナのリーダーは、ガナパティ(gaṇa-pati)またはガネーシャ(gaṇa-īśa)。象の頭をした同名の神は、「シヴァ神のガナ(眷属集団)のリーダー」。この名は彼のいわば役職名で、本名ではありません。
サンガは「僧伽」(そうが)と音訳され、その略が「僧」。つまり「僧」とは、もともとは共和制によっていとなまれる比丘(僧侶)集団をさす言葉だったのです。そもそも、ブッダの出自のシャカ国(Śākhyāḥ)が共和制でした。
ブッダの父シュッドーダナも、パーラ朝のゴーパーラ王同様、選挙によって選出された君主である、ということです。ブッダは、当時一般的であった政治形態を教団運営に転用したのでした。
こうした古代インドの民主制、共和制は、やがてマウリヤ朝、グプタ朝といった大帝国の出現によって潰えてしまいますが、村落レベルではいまだにその名残が見られます。

さて、今、日本の政治がキナ臭くなっています。しかし、日本の政治家が選挙によって選ばれた人たちであることを忘れてはなりません。選挙は、政治家ではない者が政治に携わることのできる唯一の機会です。
その選挙に行かなかった者、与党に投票した者には「共謀罪」をとやかく云う資格がありません。
スポンサーサイト

【コラム】パクチー料理あれこれ



香菜、シャンツァイ、コリアンダー、こえんどろ、ダーニヤー……いろいろな呼び名がありますが、タイ語のパクチーがすっかり定着してしまいました。
インドやチャイナの料理のレシピにも「パクチー適量」などとあるのを見ると、違和感を感じてしまいますが……まあ、ここは、パクチーにしておきましょう。
こいつについては以前にも書きましたが、あれから予想外の変化がありまして——

パクチーといえば、以前はスーパーのハーブ・コーナーで、水耕栽培の香り(臭み?)の薄っぺらいのが2株ほど入って200円近くもしたものでした。
が、今では同じスーパーの野菜売り場で、露地栽培したヤツが、同じ値段で、どっさりと購入することができるようになったのです。
パクチーは、トムヤムやカレーに添えるハーブから、もしゃもしゃ食べる野菜に昇格しました。
これは、わたしにとって嬉しいことにはちがいないのですが、しかしパクチーは足が早い。すぐに腐ってしまう。つまり、ほうれん草のおひたしにして食べるくらいの量を、一度に消費しなければならない。
パクチー料理をいろいろと思案中です。

パクチー好きのかたのなかには、納豆や味噌汁にも入れる、という強者(つわもの)もいらっしゃいますが、日本料理には、せりや三つ葉は合っても、パクチーはまだ不向きな気がします。香りが強すぎます。まだ、といったのは、かつては日本料理に絶対に合わないと云われていたセロリが、いまでは漬け物にしたり、味噌ディップをつけて食べられるようになったから。人の嗜好は変わるもの。
パクチーは、うどんやそばには合わない。しかし、ラーメンには合う。これは、つまり油とはマッチする、ということ。野菜炒めやゴーヤチャンプルーに入れれば、美味しく食べられる。
インドカリーはもちろんのこと、日本式のカレーにも合う。つまり、スパイスとも相性がいい。

○ギョーザ:パクチーとニラを細かく刻んで、ひき肉と混ぜ、塩、コショウ、ゴマ油などで調味して餡にし、皮でつつむ。
皮も自分でつくりたいところだが、市販のものでいい。パクチーの場合は、水餃子よりも焼き餃子にしたほうが、断然うまい。
○チャーハン:カレー味のものやタイのカオパッ風のものであれば、かなり大量のパクチーを入れてもいける。
○プラーカ:“プラーカ”は以前「ちょこっとサンスクリット」で説明しました。炊き込みご飯であるプラーオ(ピラフ)のもととなったインド伝統の混ぜご飯です。
http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-125.html
お玉にギーを入れ、中火にして、クミン・シードを加える。クミンの香りが出たら、かために炊いたご飯にぶっかけ、塩、
そしてみじん切りにしたパクチーをどっさりを入れ、混ぜあわせる。スパイスを工夫したり、最後にレモン汁を加えるなど、このバリエーションは無限にあります。
○スーパ(カレー):タマネギのみじん切りを炒め、スパイスないしはカレー粉を投入し、さらにチキンなどの具材をくわえてつくるインド風のカリー。
仕上げに、ミキサーでペースト状にしたパクチーを加えて、少し煮る(煮すぎると風味が飛ぶ)。パクチーにミントやホーリーバジルを加えてもよい。
見た目はほうれん草カレーみたいなかんじになります。

パクチーを大量に使うお気に入りの料理があれば、お教えください。
最後にひとこと。パクチーはデトックス効果が高い。よって、ハーブとして食べるには問題ないが、このように大量に摂取すると、体調が急激に変化し、ぐったりする人もいます。要注意。

伊藤武ちょこっとサンスクリット 【パトラカ patraka पत्रक】


前回は、書物や図書館の話をしました。今回は、文字をしるす媒体について——といえば、「紙」ですが、インドで紙が大衆レベルにまで浸透するのは、ついつい最近の20世紀になってからのこと。
なにせ、トイレットペーパーも、洟(はな)をかむティッシュも無用のお国柄。ご存知のとおり、トイレは全手動式ウォシュレット、洟は手鼻でチン。いやいや、これは冗談ですが、わたしの知っている1980年代でも、小中学校の学童たちは紙のノートをもたず、各自が小さな黒板をだいて、それに字を書いていましたから。

インドでは、文字は当初、岩石や粘度板に刻まれました。つぎには獣皮や樹皮、布などに書きこまれるようになりました。
また特殊な例としては、永久保存を目的にしたのでしょう、金属板に陰刻されたものもあます。
しかし、インドで古代から中世にかけて一般に用いられたのはターラ・パトラ、すなわちオウギヤシ(tāla)その他ヤシ類の葉(patra)でした。
ヤシの若葉を刈り取り、陰干しする。平らになるように重しをかける。カビがつかないように燻す——などの下処置をしてから、必要とされる大きさに、上下左右を切断して長細い短冊(たんざく)形に加工し、紐(スートラ)を通して束ねるための孔があけられます。
書写には、南インドやスリランカでは鉄筆が、北インドでは筆と墨(煤を油と混ぜたもの)が用いられました。そして、鉄筆と筆の違いが、南北の書体の差となって現われました。ヤシの葉に鉄筆で彫りこむとき、長い水平線を彫り込むと割れてしまう。そのため、南方の文字は丸文字なのです。
ちなみにヤシの葉に記された文書の、現存する世界最古のものは、日本の法隆寺に伝えられた梵文の『般若心経』とされています。7、8世紀の書体で、墨で書かれています。
こうした文書は、ターラの音を写し「多羅葉」(たらよう)、パトラの音を写して「貝多羅」(ばいたら)と漢訳されました。音に意味を重ねて「貝葉」(ばいよう)ともよばれます。

では、中国で紀元前後に発明された紙が、インドでは何とよばれたかというと——
サンスクリットでは、パトラカ(patraka)。「葉(patra)のごときもの(ka)」の意。バラモンにとっては、紙はあくまでもヤシの葉の代用品だったのですね。
ヒンディー語では、カーガズ(kāgaz)。ペルシア語起源の言葉で、紙がムスリムによってもたらされたことを物語っています。
もっとも、英語のpaperがインド式に発音されたペーパールのほうが通りがよいかもしれません。これは、多くの人々にとって、紙といえば20世紀になって普及したヌーズペーパール(newspaper)、すなわち新聞だったことを表わしています。
公認の歴史では、インドに製紙技術が伝わるのは、ムスリムが北インドを席巻した13世紀以降とされていますが、7世紀にインドを旅した唐の使節、王玄策(おうげんさく)はカシミールで製紙を目撃しています(『中天竺国行記』)。
つまり、紙は早くに入ったが、広まることはなかった。
普及の遅れた理由は、バラモンにとって、紙は聖典を記すにふさわしくない「ケガレたもの」であったから。そのころの紙は、大麻や竹などの植物繊維のほかに、着古したボロ布を原料としていました。この種の紙はいまでも農村などで作られていますが、誰が着たかわからないような布を使ったような紙は、不浄きわまりない、ということになります。
13世紀以降も、インドの紙職人のほとんどがムスリムであったため、紙に細密画(ミニアチュール)が描かれることはあっても、聖典がしるされることはありませんでした。20世紀に、印刷本が写本に取って代わり、ようやく紙の聖典が現われるようになりました。してみると、“パトラカ”も、比較的最近になって造語されたサンスクリットかと思われます。

伊藤武コラム 【エキゾチック密教】


「高野山でインドの神々に出会った」五木寛之
なつかしき国鉄の、エキゾチック・ジャパンのキャッチコピーです。1980年前後に密教の一大ブームがありました。司馬遼太郎の『空海の風景』が発表されたのもそのころ。チベット密教が紹介されたのもそのころ。
チベット密教といっても、学術的な本が出るのは1990年代になってからのことで、詳しいことはまだ誰も知りません。チベット密教の、強烈なイメージが、最初にありました。
そして、そのイメージを決定づけたのが、当時雑誌のグラビアなどで頻繁に見かけたチベット寺院の壁画の、エキゾチックなマンダラやホトケたちの写真であったことは疑いありません。
インドの、ラダックの密教寺院です。1970年代、チベット本土の無数の仏教寺院が、共産帝国の軍靴に踏みにじられ、無惨な廃墟と化していったちょうどそのころ、チベット高原の西にあってインド領に組み込まれていたラダックが、旅行者に解放されたのでした。
わたしも、写真に釣られ、その地を旅しました。褐色の大地と群青色の空のはざまに、強い光と濃い影にあやなされた、人間の生の祈りが、生きたチベットがありました。
チベット仏教は、生ぐさいパワーに渦巻いていました。
ホトケは女神と、生ぐさく交わっています。
うすぐらい仏堂は、ギーを燃す灯明で、生ぐさく匂っています。
その明かりにゆらゆらと照らし出される壁画は、腑分けされた内臓を思わせる赤や黄や青の原色を、ぬらぬらと、生ぐさい色調で放射しています。
日本の仏教が「清」(せい)であるとすれば、チベット仏教は「濁」(だく)。動物的な、粘膜質な肌ざわりがあります。
おなじ原色の仏教であるタイのそれと比べても、チベットは圧倒的なパワーを秘めた「濁」であり、生ぐささが際立っています。
20代前半の、生ぐさい年ごろのわたしは、その生ぐささにすっかり酔わされてしまいました。
今思えば、チベット密教——というより、後期密教が生ぐさいのは、そのヨーガが人間の生(せい)の力をとことん利用するハタ・ヨーガに類するものであるからなのでしょう。いや、真にハタ・ヨーガとよべるものは、こんにちのインドにはなく、チベット密教にこそ保存されていることは、研究者であれば誰もが口にすることです。

ラダックにおいて、いちばん魅力的なのは、アルチ寺院。そのすぐそばを、インダス河が大地を深く割って流れています。
大河は、ここから先は、カシミール、ウッディーヤナ(スワット渓谷)をへて、肥沃な平野に達します。
かつてインダス文明をはぐくみ、後のガンダルワの仏教王国(ガンダーラ)の舞台となったところです。
アルチ寺院は、この流れを逆にやってきたインドの匠(たくみ)、またはその直弟子のチベットの匠たちによって造られました。したがって、その建築も、マンダラなどの絵画様式も、チベットというよりも、インドに属します。インド密教の、現存する唯一の遺構です。
寺院は木造建築です。古代インドの宗教建築は木造でしたが、8世紀ごろから石造に代わっていきます。ヒマーチャルやケーララには木造の伝統が残っていますが、古代の建築は存在しないので、古い形を伝えるアルチはたいへん重要です。
そして、アルチ最大の魅力は、なんといっても、アジャンターや今はなきバーミヤーンの壁画にも比肩する秀麗な、おびただしい数の壁画。
マンダラは日本密教と同じ中期密教に属するものがほとんどですが、色使い、ホトケたちの妖艶な顔つきや、ウェストが極端にくびれた独特の体つきは、きゅんとするほどエキゾチック、としか云いようがありません。
また、専門的になりますが、金剛界の大日如来が智拳印(ちけんいん)というムドラーを結んでいるのは、日本密教とアルチだけ。他のチベットやネパール、またインドやジャワに遺る大日像は、すべて転法輪印(てんぽうりんいん)を結んでいます。つまり、高野山とアルチにだけ、同じ起源を持つ「密教」が現代まで生きつづけていた、ということになります。

【サハジャ インドツアー ラダックの秘境レー/ヌブラの旅】
伊藤武と巡る、チベットの文化、仏教、美術。書下しグランタ付き。パンフご希望の方は、送り先明記の上、yaj612@gmail.comへご連絡ください。
◆日時 7月16日(日)〜23日(日)

伊藤武ちょこっとサンスクリット【プスタカーラヤ pustakālaya पुस्तकालय】

伊藤武ちょこっとサンスクリット【プスタカーラヤ pustakālaya पुस्तकालय】

わたしの住んでいる町では、書店も古本屋も文房具店も絶滅してしまいました。イラスト用のケント紙やペン先も、電車に乗って遠くまで買いに行かねばなりません。時代の趨勢(すうせい)なのでしょうが、もの書きとしては寂しいかぎり……。
しかし、幸いなことに図書館は充実しています。紙の書物がぎっしり詰まった背の高い棚のあいだを歩くときは、いつもワクワクします。さあ、今日はいったいどんな本と、どんな知識と出会えるのだろうと。

さて、「図書館」をあらわす梵語はプスタカーラヤ。pustaka(本、書物、原稿)とālaya(倉庫)の合成語です。プスタカ・サングラハ(-saṃgraha)、プスタカ・バーンダーラ(-bhāṇḍāra)も同義。智慧の女神サラスワティー(Sarasvatī)にあやかった、“サラスワティー・バーンダーラ”という素敵な呼び方もあります。
初期のバラモンたちは文字を使って聖典を残すことを嫌ったため、ヴェーダ時代には書物というべきものはありませんでした。ウパニシャッドをふくむ膨大な量のヴェーダ文献も、パーニニ文典も、すべて丸暗記されたのです。
文字を使って聖典を書写することを始めたのは、じつはスリランカの仏教徒たちでした。BC.25年、貴重な知識が散逸しないようにと、それまで口誦で伝えられてきた仏典(パーリ語三蔵経のすべてとシンハリ語註釈)が、ヤシの葉に、文字で書きしるされるようになったのです。
インドの仏教徒もこれに倣い、バラモンたちもやがて文書をしたためるようになります。
いったん文書がつくられるようになると、堰(せき)を切ったように大量の書物が出まわるようになりました。なにせ、それまでに蓄えてきた知識の量じたいが巨大でしたから。
もちろん印刷技術はまだありません。手で書き写す、いわゆる写本です。そのため、書写をもっぱらとするカーヤスタ(kāyastha)という新しいジャーティ(職業)が生まれました。カーヤスタは職人ですからカーストはシュードラですが、神聖なサンスクリットや聖典を扱うためバラモンに準ずる、という奇妙な地位にあります。かれらは、挿し絵を入れる必要上、絵も描きます。
カーヤスタ出身の有名な宗教家は多い。後期密教の代表的な成就者の一人で、ゴーラクシャのライバルとされたクリシュナチャーリン(カンハ)や、近代ではヴィヴェーカーナンダがそうです。ヨーガーナンダもたしかカーヤスタだったと思います。
それはともかく、寺院や僧院は、書物を蒐集し、図書館の充実をはかるようになります。わたしは、コナーラクのバラモン僧院で、図書館とまではいえなくても、大きな書庫を目撃したことがあります。書棚には、おびただしい数の古文書が積まれ、堆積した時間がかもし出す饐(す)えたようなにおいが漂っていました。
「ここには数千年来の知識が詰まっている。失われたとされる書物もある」と見せてくれた院主。
「だが、見つかったら、政府の学者に取りあげられてしまうから、ナイショにしておいてくれ」
とクギを刺されてしまいした。

インド史上もっとも有名な図書館は、ナーランダー仏教大学にあった“ラトナボーディ”(Ratna-bodhi:「智の宝庫」)でしょう。7世紀前半にここに留学した玄奘(『西遊記』
の三蔵法師のモデル)は「9階建てであった」と証言しています。
この大学では、仏教だけにとどまらず、ヴェーダ、ウパニシャッド、サーンキヤ、自然科学(ヴァイシェーシカ)、論理学(ニヤーヤ)——これらは重要科目——を含む学問や、文学、芸術、天文学、医学(アーユルヴェーダ)、錬金術(ラサーヤナ)、さらには武術(ダヌルヴェーダ)さえも研究されていました。医学はたいへん勝れ、外科もよく開発されていました。図書館には、それらの書と膨大な数の処方が山と積まれていたのです。
しかし、1193年、ナーランダーはイスラム軍の侵略を受けます。気の遠くなるような年月をかけて築き上げられた知識の都は、わずか数時間で灰燼に帰してしまいました。
伝説によると、破壊者バフティヤール・ハルジーは、ナーランダーが炎上する間、哄笑しつづけました。2001年にバーミヤーンの大仏を爆破したタリバーンがそうであったように、「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)」と喚(おめ)きながら。何人かの僧が、ハルジーの足もとに身を投げ出し、
「この世界に名高きラトナボーディ図書館だけは破壊しないでください」
と請うた、ということです。ハルジーは僧侶を蹴り、炎のなかに書物とともに投げこみました。
僧は外国へ逃れ、市民は野蛮人になり、ナーランダーは悲しい記憶となってしまいました。

左サイドMenu

プロフィール

インド作家_伊藤武(クルシー)

Author:インド作家_伊藤武(クルシー)

twitter

最新記事

最新トラックバック

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR