バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

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伊藤武ちょこっとサンスクリット 【パトラカ patraka पत्रक】


前回は、書物や図書館の話をしました。今回は、文字をしるす媒体について——といえば、「紙」ですが、インドで紙が大衆レベルにまで浸透するのは、ついつい最近の20世紀になってからのこと。
なにせ、トイレットペーパーも、洟(はな)をかむティッシュも無用のお国柄。ご存知のとおり、トイレは全手動式ウォシュレット、洟は手鼻でチン。いやいや、これは冗談ですが、わたしの知っている1980年代でも、小中学校の学童たちは紙のノートをもたず、各自が小さな黒板をだいて、それに字を書いていましたから。

インドでは、文字は当初、岩石や粘度板に刻まれました。つぎには獣皮や樹皮、布などに書きこまれるようになりました。
また特殊な例としては、永久保存を目的にしたのでしょう、金属板に陰刻されたものもあます。
しかし、インドで古代から中世にかけて一般に用いられたのはターラ・パトラ、すなわちオウギヤシ(tāla)その他ヤシ類の葉(patra)でした。
ヤシの若葉を刈り取り、陰干しする。平らになるように重しをかける。カビがつかないように燻す——などの下処置をしてから、必要とされる大きさに、上下左右を切断して長細い短冊(たんざく)形に加工し、紐(スートラ)を通して束ねるための孔があけられます。
書写には、南インドやスリランカでは鉄筆が、北インドでは筆と墨(煤を油と混ぜたもの)が用いられました。そして、鉄筆と筆の違いが、南北の書体の差となって現われました。ヤシの葉に鉄筆で彫りこむとき、長い水平線を彫り込むと割れてしまう。そのため、南方の文字は丸文字なのです。
ちなみにヤシの葉に記された文書の、現存する世界最古のものは、日本の法隆寺に伝えられた梵文の『般若心経』とされています。7、8世紀の書体で、墨で書かれています。
こうした文書は、ターラの音を写し「多羅葉」(たらよう)、パトラの音を写して「貝多羅」(ばいたら)と漢訳されました。音に意味を重ねて「貝葉」(ばいよう)ともよばれます。

では、中国で紀元前後に発明された紙が、インドでは何とよばれたかというと——
サンスクリットでは、パトラカ(patraka)。「葉(patra)のごときもの(ka)」の意。バラモンにとっては、紙はあくまでもヤシの葉の代用品だったのですね。
ヒンディー語では、カーガズ(kāgaz)。ペルシア語起源の言葉で、紙がムスリムによってもたらされたことを物語っています。
もっとも、英語のpaperがインド式に発音されたペーパールのほうが通りがよいかもしれません。これは、多くの人々にとって、紙といえば20世紀になって普及したヌーズペーパール(newspaper)、すなわち新聞だったことを表わしています。
公認の歴史では、インドに製紙技術が伝わるのは、ムスリムが北インドを席巻した13世紀以降とされていますが、7世紀にインドを旅した唐の使節、王玄策(おうげんさく)はカシミールで製紙を目撃しています(『中天竺国行記』)。
つまり、紙は早くに入ったが、広まることはなかった。
普及の遅れた理由は、バラモンにとって、紙は聖典を記すにふさわしくない「ケガレたもの」であったから。そのころの紙は、大麻や竹などの植物繊維のほかに、着古したボロ布を原料としていました。この種の紙はいまでも農村などで作られていますが、誰が着たかわからないような布を使ったような紙は、不浄きわまりない、ということになります。
13世紀以降も、インドの紙職人のほとんどがムスリムであったため、紙に細密画(ミニアチュール)が描かれることはあっても、聖典がしるされることはありませんでした。20世紀に、印刷本が写本に取って代わり、ようやく紙の聖典が現われるようになりました。してみると、“パトラカ”も、比較的最近になって造語されたサンスクリットかと思われます。
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伊藤武コラム 【エキゾチック密教】


「高野山でインドの神々に出会った」五木寛之
なつかしき国鉄の、エキゾチック・ジャパンのキャッチコピーです。1980年前後に密教の一大ブームがありました。司馬遼太郎の『空海の風景』が発表されたのもそのころ。チベット密教が紹介されたのもそのころ。
チベット密教といっても、学術的な本が出るのは1990年代になってからのことで、詳しいことはまだ誰も知りません。チベット密教の、強烈なイメージが、最初にありました。
そして、そのイメージを決定づけたのが、当時雑誌のグラビアなどで頻繁に見かけたチベット寺院の壁画の、エキゾチックなマンダラやホトケたちの写真であったことは疑いありません。
インドの、ラダックの密教寺院です。1970年代、チベット本土の無数の仏教寺院が、共産帝国の軍靴に踏みにじられ、無惨な廃墟と化していったちょうどそのころ、チベット高原の西にあってインド領に組み込まれていたラダックが、旅行者に解放されたのでした。
わたしも、写真に釣られ、その地を旅しました。褐色の大地と群青色の空のはざまに、強い光と濃い影にあやなされた、人間の生の祈りが、生きたチベットがありました。
チベット仏教は、生ぐさいパワーに渦巻いていました。
ホトケは女神と、生ぐさく交わっています。
うすぐらい仏堂は、ギーを燃す灯明で、生ぐさく匂っています。
その明かりにゆらゆらと照らし出される壁画は、腑分けされた内臓を思わせる赤や黄や青の原色を、ぬらぬらと、生ぐさい色調で放射しています。
日本の仏教が「清」(せい)であるとすれば、チベット仏教は「濁」(だく)。動物的な、粘膜質な肌ざわりがあります。
おなじ原色の仏教であるタイのそれと比べても、チベットは圧倒的なパワーを秘めた「濁」であり、生ぐささが際立っています。
20代前半の、生ぐさい年ごろのわたしは、その生ぐささにすっかり酔わされてしまいました。
今思えば、チベット密教——というより、後期密教が生ぐさいのは、そのヨーガが人間の生(せい)の力をとことん利用するハタ・ヨーガに類するものであるからなのでしょう。いや、真にハタ・ヨーガとよべるものは、こんにちのインドにはなく、チベット密教にこそ保存されていることは、研究者であれば誰もが口にすることです。

ラダックにおいて、いちばん魅力的なのは、アルチ寺院。そのすぐそばを、インダス河が大地を深く割って流れています。
大河は、ここから先は、カシミール、ウッディーヤナ(スワット渓谷)をへて、肥沃な平野に達します。
かつてインダス文明をはぐくみ、後のガンダルワの仏教王国(ガンダーラ)の舞台となったところです。
アルチ寺院は、この流れを逆にやってきたインドの匠(たくみ)、またはその直弟子のチベットの匠たちによって造られました。したがって、その建築も、マンダラなどの絵画様式も、チベットというよりも、インドに属します。インド密教の、現存する唯一の遺構です。
寺院は木造建築です。古代インドの宗教建築は木造でしたが、8世紀ごろから石造に代わっていきます。ヒマーチャルやケーララには木造の伝統が残っていますが、古代の建築は存在しないので、古い形を伝えるアルチはたいへん重要です。
そして、アルチ最大の魅力は、なんといっても、アジャンターや今はなきバーミヤーンの壁画にも比肩する秀麗な、おびただしい数の壁画。
マンダラは日本密教と同じ中期密教に属するものがほとんどですが、色使い、ホトケたちの妖艶な顔つきや、ウェストが極端にくびれた独特の体つきは、きゅんとするほどエキゾチック、としか云いようがありません。
また、専門的になりますが、金剛界の大日如来が智拳印(ちけんいん)というムドラーを結んでいるのは、日本密教とアルチだけ。他のチベットやネパール、またインドやジャワに遺る大日像は、すべて転法輪印(てんぽうりんいん)を結んでいます。つまり、高野山とアルチにだけ、同じ起源を持つ「密教」が現代まで生きつづけていた、ということになります。

【サハジャ インドツアー ラダックの秘境レー/ヌブラの旅】
伊藤武と巡る、チベットの文化、仏教、美術。書下しグランタ付き。パンフご希望の方は、送り先明記の上、yaj612@gmail.comへご連絡ください。
◆日時 7月16日(日)〜23日(日)

伊藤武ちょこっとサンスクリット【プスタカーラヤ pustakālaya पुस्तकालय】

伊藤武ちょこっとサンスクリット【プスタカーラヤ pustakālaya पुस्तकालय】

わたしの住んでいる町では、書店も古本屋も文房具店も絶滅してしまいました。イラスト用のケント紙やペン先も、電車に乗って遠くまで買いに行かねばなりません。時代の趨勢(すうせい)なのでしょうが、もの書きとしては寂しいかぎり……。
しかし、幸いなことに図書館は充実しています。紙の書物がぎっしり詰まった背の高い棚のあいだを歩くときは、いつもワクワクします。さあ、今日はいったいどんな本と、どんな知識と出会えるのだろうと。

さて、「図書館」をあらわす梵語はプスタカーラヤ。pustaka(本、書物、原稿)とālaya(倉庫)の合成語です。プスタカ・サングラハ(-saṃgraha)、プスタカ・バーンダーラ(-bhāṇḍāra)も同義。智慧の女神サラスワティー(Sarasvatī)にあやかった、“サラスワティー・バーンダーラ”という素敵な呼び方もあります。
初期のバラモンたちは文字を使って聖典を残すことを嫌ったため、ヴェーダ時代には書物というべきものはありませんでした。ウパニシャッドをふくむ膨大な量のヴェーダ文献も、パーニニ文典も、すべて丸暗記されたのです。
文字を使って聖典を書写することを始めたのは、じつはスリランカの仏教徒たちでした。BC.25年、貴重な知識が散逸しないようにと、それまで口誦で伝えられてきた仏典(パーリ語三蔵経のすべてとシンハリ語註釈)が、ヤシの葉に、文字で書きしるされるようになったのです。
インドの仏教徒もこれに倣い、バラモンたちもやがて文書をしたためるようになります。
いったん文書がつくられるようになると、堰(せき)を切ったように大量の書物が出まわるようになりました。なにせ、それまでに蓄えてきた知識の量じたいが巨大でしたから。
もちろん印刷技術はまだありません。手で書き写す、いわゆる写本です。そのため、書写をもっぱらとするカーヤスタ(kāyastha)という新しいジャーティ(職業)が生まれました。カーヤスタは職人ですからカーストはシュードラですが、神聖なサンスクリットや聖典を扱うためバラモンに準ずる、という奇妙な地位にあります。かれらは、挿し絵を入れる必要上、絵も描きます。
カーヤスタ出身の有名な宗教家は多い。後期密教の代表的な成就者の一人で、ゴーラクシャのライバルとされたクリシュナチャーリン(カンハ)や、近代ではヴィヴェーカーナンダがそうです。ヨーガーナンダもたしかカーヤスタだったと思います。
それはともかく、寺院や僧院は、書物を蒐集し、図書館の充実をはかるようになります。わたしは、コナーラクのバラモン僧院で、図書館とまではいえなくても、大きな書庫を目撃したことがあります。書棚には、おびただしい数の古文書が積まれ、堆積した時間がかもし出す饐(す)えたようなにおいが漂っていました。
「ここには数千年来の知識が詰まっている。失われたとされる書物もある」と見せてくれた院主。
「だが、見つかったら、政府の学者に取りあげられてしまうから、ナイショにしておいてくれ」
とクギを刺されてしまいした。

インド史上もっとも有名な図書館は、ナーランダー仏教大学にあった“ラトナボーディ”(Ratna-bodhi:「智の宝庫」)でしょう。7世紀前半にここに留学した玄奘(『西遊記』
の三蔵法師のモデル)は「9階建てであった」と証言しています。
この大学では、仏教だけにとどまらず、ヴェーダ、ウパニシャッド、サーンキヤ、自然科学(ヴァイシェーシカ)、論理学(ニヤーヤ)——これらは重要科目——を含む学問や、文学、芸術、天文学、医学(アーユルヴェーダ)、錬金術(ラサーヤナ)、さらには武術(ダヌルヴェーダ)さえも研究されていました。医学はたいへん勝れ、外科もよく開発されていました。図書館には、それらの書と膨大な数の処方が山と積まれていたのです。
しかし、1193年、ナーランダーはイスラム軍の侵略を受けます。気の遠くなるような年月をかけて築き上げられた知識の都は、わずか数時間で灰燼に帰してしまいました。
伝説によると、破壊者バフティヤール・ハルジーは、ナーランダーが炎上する間、哄笑しつづけました。2001年にバーミヤーンの大仏を爆破したタリバーンがそうであったように、「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)」と喚(おめ)きながら。何人かの僧が、ハルジーの足もとに身を投げ出し、
「この世界に名高きラトナボーディ図書館だけは破壊しないでください」
と請うた、ということです。ハルジーは僧侶を蹴り、炎のなかに書物とともに投げこみました。
僧は外国へ逃れ、市民は野蛮人になり、ナーランダーは悲しい記憶となってしまいました。

伊藤武コラム【スパゲッティのルーツ】

伊藤武コラム【スパゲッティのルーツ】

スーパーのおサカナ売り場をのぞくと、ありました。カタクチイワシ!
しばらく出まわらなかったのです。2年ぶりの再会です。パスタやピザに欠かせないアンチョビの材料です。あるだけ買い占めました。といっても4パック。160尾ぐらいでしょうか。
数時間かけて、頭を落とし、手開きして、ワタと骨を除き、塩漬けにします。
まあ、これで1年はもつ。わが主食のひとつ、手打ちスパゲッティは、これも手作りアンチョビとベランダで栽培しているハーブ(パセリ、オレガノ、バジルなど)があればなんとか食える……
さて、今回は、スパゲッティのルーツのお話。
「スパゲッティはオラが国が元祖だ。マルコ・ポーロが持ち帰ったんだ」とチャイニーズは言い張る。
「ふん、スパゲッティなんて、古代からあったさ。『アピシウスの料理書』(古代ローマのレシピ本)にも書いてある」とイタリアンのプライドは譲らない。
どちらが正しいのでしょう? わたしなりに判定を下してみましょう。

“パスタ”は「小麦粉のねりもの」ぐらいの意味。スパゲッティだけではなく、ペンネ、ラザニアなども含みます。スパゲッティはロング・パスタということになる。
そして、紀元前のローマ時代から確かにありました。今のとほとんど変わらないパスタを作る道具がBC.4世紀の遺跡から出土しているから、まちがいない。
つまり、スパゲッティは2000年以上の歴史を経て現在に到っているわけです。ついでに云っておくと、アンチョビをさらに発酵させてハーブ入りの魚醤油にした、ガルムというソースもありました。
つまり、アンチョビもスパゲッティも、2000年以上の歴史を経て現在に到っているわけです。
今日のイタリアのスパゲッティの意外な輸出先がアラブ諸国。ですから、スーパーなどで見るイタリア産のスパゲッティのつつみに、あのミミズがのたくったようなアラビア文字が記されていたりします。アラブでは、スパゲッティは、羊やトマトのスープに入れて、
ウドンのようにして食べることが多いようです。
中国の「麺」も“パスタ”とほぼ同じ意味で、「小麦粉のねりもの」。ギョウザや餅(ピン:日本のモチとはちがって、インドのチャパティとほぼ同じもの)も含まれますが、ソバ粉のメンやビーフンは「麺」とはいわない。
中国は、小麦にかんしては地中海に比べるとずっと後進国で、小麦文化は中央アジアに学びました。それが証拠にAD.6世紀に編纂された中国現存最古の料理書『斉民要術』(せいみんようじゅつ)には、小麦の蒸しパン、饅頭(マントウ)はまだありません。かわりに胡炉(タンドール)で焼くナーンが「焼餅」(シャオピン)の名で紹介されています。饅頭も、はじめは蛮頭の字をあてたことを考えると、西域の蒸しギョウザ、マントウが起源と思われます。
だとしたら、勝負あった。イタリアのスパゲッティは、チャイナと何の関係もない——といいたいところですが、それが先述したアラブを介してつながってくるのです。

中国人が小麦食にオリジナリティを発揮するのは唐代以降のこと。すなわち、多様な、今日われわれがイメージするような麺類が登場します。8世紀ごろ、麺棒で平たく延ばした小麦の生地を包丁で切り分ける切麺(きりめん)や小麦の生地を手指で引き延ばす拉麺(ラーミェン)が開発されました。
これが鎌倉時代、日本に渡来して饂飩(うどん)や素麺(そうめん)になるわけですが、それより前に西域に伝わり、中央アジアのトルコ系の人びとに“ラグマン”として受容されます。ラグマンには手で延ばすのも、包丁で切るのも両方ありますが、名前からして中国起源であることは、まずまちがいない。
ラグマンは、アフガニスタンを通って(アフガニスタンでも麺を食べる)アラブに伝わり、“ルグマーン”と訛ります。アラブ人もはじめは生麺を食べていました。
生麺は砂漠の熱で自然と乾麺になります。それが保存と持ち運びに耐えることに気づきました。乾麺が主流となりました。それが9〜12世紀のアラブ人のシチリア支配期、ピラフやソバなどとともにイタリアに伝わった。——といえば、もう、おわかりでしょう。
イタリアで乾燥スパゲッティが普及するのは、16世紀のことです。
それにしても、この間に、インドに麺が伝わらなかったのは、ちょっと不思議です。

伊藤武ちょこっとサンスクリット【マディヤ madya मद्य】


今日とは異なり、古代のインドはお酒に寛大だったようです。アーユルヴェーダのチャラカ先生も、
「酒は、理にかなった飲み方をすれぱ、甘露のごとく有益になろう」
と酒好きには嬉しいことをおっしゃい(理にかなった飲み方——というのが難関)、当時つくられていた84種類の酒とその効用を説かれておられる。
そこで、今回はサンスクリットの酒のあれこれ。古代文献にはいろいろな酒が出てきますが、訳書では全部「アルコールの一種」で片づけられる。それではつまんないですからね。

日本では、日本酒も、ビールも、ワインも、焼酎も、ブランデーも、ウイスキーも、ラムも……全部「さけ」ですが、これに相当するお酒の総称はマディヤ(madya)。語源は、以前述べた「魚」のmatsyaと同じ√mad(酔う/喜ぶ/狂う)。「酔わせるもの、喜ばせるもの、狂わせるもの」——酒の真実を語っています。
この“マディヤ”を化学的に定義すれば、「液体中の糖分が酵母の作用によって、アルコールに変化したもの」。はやい話、砂糖水にパン用のドライイーストを放りこむだけで、アルコールに変わります。
インド文明最初のリグ・ヴェーダ時代に飲まれた酒は、ターリー(tālī)とスラー(surā)。
ターリーは、ナツメ椰子(tāla)の樹液が発酵したもの。糖分をたっぷり含んだヤシ類の樹液は、壺に容れておくだけで、天然酵母の力で、勝手に酒になってくれます。tālīは英語化してtoddyとなり、今日のインドでも椰子酒は、トリー、タディーなどとこの系統の言葉で呼ばれています。
スラーは穀物をかもしたドブロク。リグ・ヴェーダの舞台はインダス文明圏と重なる西北インドで、主食は大麦(yava)。スラーも大麦からつくられました。
穀物から酒をつくるには、デンプンをいったん糖化しなければなりません。大麦の場合は、そのモヤシ(麦芽、モルト;梵tokma)が糖化剤となります。
ヴェーダ語を話す人びとは、インダス流域から稲作に適したガンジス方面に進出します。かれらは米からもドブロクをつくるようになり、後にこれがスラーの主流となります。米のスラーは、はじめは大麦のそれと同じく米のモヤシを用いて糖化させていましたが、やがて麹(こうじ;梵kinva)が発明され、より強くて美味しいスラーが作られるようになります。くわしくは、http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-110.html
ちなみに、現代サンスクリットでは、ビールは“ヤヴァスラー”(yava-surā;大麦酒)と称されます。
また、古代にはマンゴーからも酒が作られました。この、正しくはスラー(穀物酒)ではないのですが、“マハースラー”(mahāsurā;偉大なる酒)と呼ばれたマンゴーワインは、現代インドでよみがえっています。甘味は消え、香りのいい、すっきりとした、ちょっとお奨めのお酒です。
糖分がアルコールになるわけですから、当然サトウキビの汁からも酒が醸されます。生の搾り汁から作ったものは文字どおりシータラサ(śīta-rasa;冷たい汁)、煮沸した汁から製したものはパクヴァラサ(pakva-rasa;沸かした汁)と称されました。
煮沸していないハチミツは天然酵母のかたまりですから、水で薄めるだけで酒になります。日本でふつうに売ってる煮沸したハチミツも、3倍量の水で薄めて、ドライイーストを混ぜれば同じようなものになります。いわゆるミードですが、サンスクリットではマドゥワーサヴァ(madhu-āsava;蜜酒)と称されます。
サトウキビの汁、またはハチミツをベースにして、アーユルヴェーダ薬剤のメーシャシュリンギー(ギムネマ)、コショウ、ヒハツ、トリパラーなどを投入しますと、マイレーヤ(maireya;雑酒)と呼ばれるものになります。ギムネマはいうまでもなく糖尿病や肝臓病の特効薬ですが、古代の醸造レシピにはひんぱんに登場する。たしかに、呑んべいも、ギムネマ酒であれば、糖尿や肝臓の心配をしないですむ(?)。
ブドウからつくったワインは、ドラークシャラサ(drākṣa-rasa;葡萄酒)と称され、古代にはインドの一部であったアフガニスタンでつくられましたが、金持ちはローマ帝国から輸入したワインを好んだようです。ブドウのワインも、最近のインドではいいものが作られるようになりましたね。
蒸留酒は、遅くても西暦紀元前後には飲まれていたようで、ガンダーラ(今日のパキスタン北西部)の仏教遺跡からは、仏像に混ざって多くの蒸留器が出土しています。

酒の話はキリがないので、このへんで止めておきましょう。
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