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バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

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シャーカーハーラ śākāhāra शाकाहार【ちょこっとサンスクリット語】

今月の【コラム】は、お休みです。

シャーカーハーラ śākāhāra शाकाहार【ちょこっとサンスクリット語】

アーハーラ(āhāra)は、ā(強調)-√hṛ(取る)の名詞化で、「取り入れること/入力」が原意。
アーハーラにprati(反対する/遠ざかる)を冠したプラティヤーハーラ(pratyāhāra)は、感覚入力をオフにするヨーガの「制感」(感覚の制御)をさします。
しかし、アーハーラは「料理/食事/食物」の意で使われることがほとんどです。語末の-aが落ちたヒンディー語のアーハールは「食物/料理」ですし、タイ語の「料理」のアーハーンもその訛り。
では、アーハーラに、シャーカ(śāka;野菜)を冠したシャーカーハーラは何でしょう?
野菜料理ではなく、「菜食主義」が正解です。「野菜料理」は、シャーカ・パートラ(-pātra)。パートラはパトラ(patra;葉)の派生語で「皿」。インドでは、ごはんは葉っぱのお皿で食べましたから。
そして、いまもバナナの葉っぱのお皿が大活躍するタミルナードゥは、世界中の菜食主義者のあこがれの聖地。この地の料理を初めて食べる者は、
――植物だけで、これほど深くて豊かな味わいをつくり出せるなんて!
と、一様にカルチュアショックをおぼえます。世の菜食料理にありがちな単調さが微塵もありません。それ自体のうちに、巨大な文明の存在を感じてしまいます。
ドラヴィダ(タミル)に菜食主義が定着するのは、パッラヴァ朝下のマハーバリプラムで寺院建築が花開く7世紀のことです。

ヴェーダ儀礼は、動物供犠がともないます。牛、馬、羊、山羊が四大犠牲獣とされ、屠られた動物は、とうぜん調理されて(おもに煮込み)食されました。これに敢然と異議申し立てをしたのが、ブッダとジャイナ教開祖のマハーヴィーラ。菜食主義の始まりです。
しかし、それは完全なシャーカーハーラではありませんでした。なぜなら、出家は食を托鉢(たくはつ)に依っていたから。施食を選り好みできる立場にありません。つまり一般庶民の食が修行僧の食でもあったのです。徹底したアヒンサー(非暴力/不殺生)で知られるジャイナ教徒も、初期にはふつうに肉食していたことが、文献からうかがえます。
北インドでは、西暦紀元前後からじょじょに菜食主義が広がってゆきます。その背景には、農業の飛躍的な進歩がありました。
たとえば、ガティ・ヤントラ(ghaṭi-yantra;壺の器械)とよばれる揚水車の発明。牛または水牛の地上をぐるぐる廻る回転運動が2つの歯車を介して水車を回し、それに結わえられた壺が、井戸や谷底の水を汲み上げる――という装置です。インドの灌漑(かんがい)の象徴といってよい。ガティ・ヤントラの普及がインドの曠野(こうや)を沃野(よくや)に改造し、強いては肉食に頼らずとも生きていけるシャーカーハーラを可能にしたのです。
そして、AD.300年ころ、「あらゆる肉食の禁止」をさだめる大乗仏教の戒律が成立します。仏教教団が、インド諸王の庇護を受け、荘園を寄進されたがゆえの完全菜食です。托鉢せずとも、荘園からの上がりだけで食をまかなうことができるようになったのです。
ドラヴィダでは、西暦の始めごろまではバラモンであっても肉食が当たり前でしたが、5、6世紀に、ヴィシュヌとシヴァの信徒vs仏教徒の確執がありました。前者は、肉を放棄せぬかぎり、非暴力と菜食主義を信じる仏教徒よりも優位に立つことは難しかったのでしょう。ゆえに、かれらは、根本教理のひとつとして、肉食の禁止を採用したということです。

インドのシャーカ・パートラが美味しいのは、油とスパイスの使いかたがとびきり上手だから。アーユルヴェーダの薬用オイルが患部にしみ込んで効力を発揮するごとく、スパイスの成分をまとった油は素材を内側から活性化します。
くわえて、南インドでは、北にはないココナッツが、限りない滋味をもって料理をはぐくんでくれています。
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ローティー roṭī रोटी【ちょこっとサンスクリット】


野に住むサードゥにパンを焼いていただきました。
托鉢で得たアータ(小麦の全粒粉)を水でこねてボールにし、掌で打ちのばして平たくする。これを熱い灰に埋め、火が通れば完成。ヒトが初めて食べたパン、を想わせる原始のパンです。
「パン」を表わすサンスクリットはいくつかありますが、そのうちローティー(roṭī)は今日でもそのまま使われている言葉です。√ruṭ(打つ)が語根ですから、生地をパンパン打ちのばすことから出た語でしょう。
ところが、インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』に「生命をささえる糧(かて)」として称えられてるのはもっぱら大麦(yava)で、小麦(godhūma)のことも、ローティーのこともまったく触れられていません。つまり5000~4000年前のインド人は、サードゥがつくるようなパンすら口にしなかったのです。
当時のインド人が小麦を知らなかったわけではありません。小麦は大麦とともに、インド(正しくは、歴史考古学のモデル地区であるメヘルガル遺跡)では、約9500年前に栽培が始まります。しかし、長いあいだ、同じころに飼育が始まったヤギやヒツジの餌にとどまりました。なぜなら、小麦は調理するまでが大変だから。

コムギの実は、硬い外皮(モミ)に包まれています。オオムギやコメであれば、外皮はキネで搗(つ)いてやれば簡単に外れるのですが、コムギはそうはいきません。コメでいえば白米にあたる可食部の胚乳とがっちりと密着している。胚乳を取りだすには、外皮ごと粉にして、フルイにかけるしかない。その粉にする作業が、大変な重労働なのです。
リグ・ヴェーダのころ、エジプトではすでに発酵パンが食べられていましたが、製粉はもっぱら奴隷の仕事でした。すり臼、つまりインドで今もスパイスを擂るのに使っているような石盤と石棒で、朝から晩まで、ゴリゴリとすり潰すのです。
3000年ほど前に西アジアのどこかで回転臼が発明されると、この手間は一気に短縮されました。すり臼では100分かかる製粉が、回転臼では1分ですみます。まことにコムギのために生まれた器械でした。
回転臼はブッダのころまでにはインドにも伝わり、以後、さまざまなパンがつくられるようになりました。

おなじみチャパティ(ヒンディーcāpāṭī)は、梵チャルパティー(carpaṭī)の転訛です。これはチャルパタ(手のひら)に由来する語ですから、はじめはローティー同様、掌で打ちのばしたのでしょう。それが、ローラーを使って薄く伸ばした生地を鉄板で焼いたものに変わりました。
サードゥのパンはボソボソしていて美味しいものではありませんでしたが、チャパティは小麦の生のデンプンが瞬時にしてα化されるため、味はよい。シンプルだが、多くのインド人が長くこれを主食としてきたことからもわかるように、それ以上改善する余地がないほど完成度が高いパンです。
チャパティを小型にしたのが、プルカ(phulkā)。ギーを塗って弁当にされることが多い。
チャパティまたはプルカを油で揚げたのが、プーリー(pūrī)。油に通すことで、神に客人に与えるにふさわしい浄性が生じます。
パロッタ(綴りはparām̐ṭhā)は、生地にギーを塗って、層にして焼いたもの。ジャガイモなどの詰めものをして焼いたものもあります。
以上は、無発酵の生地を用いたパンですが、ナーン(nān)は古代エジプトのパンの流れを汲む、インドではパンジャーブに特有の発酵パンです。
ローティーは、現在のヒンディー語でも、これらさまざまなパンの総称として、またチャパティの古語として使われています。

現代インドのチャパティ用のコムギも、モンサントの餌食になりました。多くの農民が絶望に追いやられ、小麦食の拒否運動も起こりました。現在、インドはモンサントを追い出しつつあります。



縄文のソーマ【コラム】



遺跡発掘のアルバイトをしていた時期があります。
大地に鉋(かんな)をかけるようにして、地肌を一皮一皮剥いでいく発掘作業は、意識の深みにダイブしていく瞑想の体験に似ています。
おのれの幼年期の光景にどこかつながるようで馴染みある昭和、大正、明治の層――遺物のほとんどは土器――の下には、徳川三百年がのんきそうに寝そべっています。
室町、鎌倉、平安、奈良、飛鳥……。脈絡もなくよみがえる断片的な思い出のようです。道すがらながめたアジアの一風景が浮かびあがってきたりします。かの地を旅し、むかしの日本のようだ、と思うことは、だれしもあるでしょう。
関東ではローム層――太古の富士山が地の底から吐き出した赤いマグマの堆積にぶちあたると、縄文です。冥(くら)い、しかし豊饒な、無意識の領域をおもわせるフィールドです。
その発掘現場に東京国立博物館の平成館が建ち、このたび「縄文展」がもよおされました。ヨーガの仲間数人で見にいきました(もっとも満員で、ほとんど人の肩越しに見るにとどまりましたが)。

若いころ、スリランカの古都、アヌラーダプラの近くの森で過ごしたことあります。
森の中には、かつては水田を潤していたであろう人造湖が今も生きていて、そのほとりの3軒の小屋に、爺さま、婆さまから乳飲み子にいたるまで十数人の家族が住んでいました。
森で暮らす人々は素敵でした。偉大なる自由さをもっていました。朝、男たちが湖で漁をやる。2、3時間もすれば30センチほどの魚が数十尾も獲れる。昼は自分たちが食べる以外の魚をもって他のところに行き、コメや野菜と交換してくる。働くのはそれだけ。残りの時間は遊んだり、眠ったり、好き勝手なことをやっています。
日本の縄文の人たちもきっと、このように暮していたのではないか、と思ったことでした。
旧石器時代(縄文は新石器時代に相当するが)こそ真の「豊かな社会」が実現されていたと主張する人類学者もいます。農耕生活を始めることによって、人間の労働時間は一挙に十倍、十数倍にも増大したのです。
森の男は云いました。
「きみには聴こえるかい? この森の音楽が、鳥たちの歌が、草木のつぶやきが。 風の流れ、太陽の燃える叫び、大地の呻き、それぞれがこの夕暮れをうたっているのが。この黄昏のシンフォニーが、憩いに向かう森の音楽が、きみの裡(うち)でひびく脈動が……聴こえるかい?」

縄文は弥生と対になるコンセプトです。
縄文は狩猟採集。弥生は農耕。縄文の造形は複雑でサイケだが、弥生のそれはシンプルで明快。
縄文10,000年のあとを、1,000年に満たぬ弥生が足早に過ぎてゆく。しかし、短い弥生の上に、古墳、やまと、飛鳥、奈良……と今につづく「時代」が重ねられていく。
とはいえ、縄文が終わったわけではありません。つい最近まであった囲炉裏(いろり)を囲んでの食事は縄文スタイルだし(弥生はかまど)、ワラビなどを灰でアク抜きするのは、まぎれもなく縄文に発する文化です。
長野では、毒キノコとされるベニテングタケをすらアク抜きをして食用としますが、これも縄文由来です。縄文の家屋からはベニテングタケの脂肪酸が確認されていますから、利用されていたことは疑いありません。ベニテングタケのうまみ成分は、シイタケのそれの10倍も濃いのです。
そして、われわれの生活にも縄文が、ときおり顔をのぞかせるように思います。ツネ(日常)に対するマツリ、として。

さて、縄文展では、ハートや三角の顔や、この時代の日本にはいなかったはずのネコ科の動物の顔をした土偶に並んで、キノコの模型がありました。
中米のマヤ文明の遺物にも、神との交流に用いた聖なるキノコ、テオナナカトル(「神の肉」の意)の模型があります。それと似た特別のキノコだったのでしょう。そして、そのキノコとは、同じ時代のインドで“ソーマ”の名で神聖視された、前述のベニテングタケだったにちがいありません。
今もこれを食する長野の人たちは、ときおりアク抜きが不完全なため、サイケデリックな世界に飛ばされる、ということです。

ドラヴィダ Draviḍa【ちょこっとサンスクリット】 

「アーリヤ人侵入説」が、インドを植民地とした大英帝国の捏造であることは、再三述べてきました。

では、“アーリヤ”と対で語られることの多い“ドラヴィダ”はどうなのしょう?

結論からいえば、ドラヴィダ語族というのはあっても、ドラヴィダ人種というのは存在しません。“ドラヴィダ”は、「地名、または国名、そこの住人」をさす語として始まりました。



南インドの“ドラヴィダ”が、北のインド人にそのすがたを顕わしたのは、BC.3世紀。アショーカ王のマウリヤ帝国拡大のときのことです。マウリヤの兵士たちは、そこでチェーラ(現在のケーララ)、チョーラ(タミルナードゥ)、パーンディヤ(南端部)という、都市を営み、文化的にも十分に成熟した「ドラヴィダ三国」と出くわすのです。

南インドのそれ以前のことは、よくわかっていません。神話伝説のたぐいは豊富にあるのですが、発表されている考古学的資料がきわめて少ないため、確かなことを云えないのです。

かれらがどこから来たかも、はっきりしていません。しかし、最近の遺伝子をもとにした研究では、約9万年前にアフリカからやって来た人類が、インド亜大陸内で、いわゆるニシャーダ人(「先住民」とされる人々)、ドラヴィダ人、アーリヤ人に分かれていった、ということです。わたしも、それが真実に近いのではないか、と考えています。

インダス文明の遺跡からは南インド産の金や石材が出土していますから、北との交易がもたれていたことは確かです。とはいえ、南インドの当時の遺跡から推測されるのは、磨製石器に土器に加えた「新石器時代」段階の物質文化です。

すこし時代が下り、BC.10世紀ごろになると、南インドは西方世界に知られるようになり、フェニキア人やソロモン王の船団がコショウなどのスパイスを求めて訪れました。“ドラヴィダ”は、スパイス貿易で蓄えた財をもとに、西方の文明をモデルに(ドラヴィダの西方からの影響はしばしば指定されています)、マウリヤ帝国の軍隊がやって来るまでの数百年のあいだに、洗練された都市文明を大急ぎで築きあげた、ということでしょうか。ありえないことではありません。のちに同じようなことやってのけますから。

ともあれ、北と南は、アショーカ王のときから親密な交流を始め、サンスクリットの単語にDraviḍaが仲間入りします。

少しのちに成立した『マヌ法典』(Ⅹ-44)には、ドラヴィダ(南インド人)が、カーンボージャ(アフガン系)、ヤヴァナ(ギリシア人)、シャカ・パフラヴァ(ペルシア系)、チーナ(中国人)、キラータ(ヒマラヤモンゴロイド)などとともに、「ヴェーダ文明の周辺に住むクシャトリヤ部族」として登録されました。

梵Draviḍaは現地の発音を写したものなのでしょうが、本来は何を意味するのでしょう。

一般的には、「洗練された、穏やかな」という意味の形容詞、ないしは形容辞とされています。しかし、8世紀のヴェーダーンタの学匠シャンカラは、ヴァーラーナシーのマンダナ・ミシュラと論争するさい、「われは、ドラヴィダ――すなわち『三方を海で囲まれた地方』から来たる者なり」と名のりを上げています。彼はケーララの出身でした。

ドラヴィダの版図は時代とともに変わりますが、Draviḍa が、Dramiḍa→Damila→Tamila と変化してTamil となり、ほぼ現在のタミルナードゥに落ち着いたことが諸文献からうかがえます。また、最初の音節を長母音化してドラーヴィダ(Drāviḍa)にすると、「ドラヴィダ系言語(タミル語、テルグ語、カナリーズ語、マラヤーラム語、トゥル話)を話す人々、またその地方」の意味になります。



ドラヴィダの人々は、アショーカ王以後、北のサンスクリットでしるされた文明をあっという間に吸収し、より高度な、洗練されたものに磨きあげていきます。

インドの寺院建築も、音楽も、ダンスも、料理も、哲学も、ドラヴィダの地でこそ、大きく開花しました。大乗仏教の大成者ナーガールジュナ(竜樹)も前述のヴェーダーンタ哲学の大成者シャンカラもドラヴィダ人です。かれらはまったく、文化的天才というほかありません。

インドが独立し、政治的にも経済的にもひとつにまとまり、南北の交流が盛んに行なわれるようになったとき、北インドの人々は、いま再びドラヴィダと出会います。かれらは、南インドのヒンドゥー寺院が見事に保存されていることに驚嘆しました。ムスリムの侵入を受け、せっかく築きあげた寺や僧院も、めちゃくちゃに壊されることの多かった北インドの人々にとって、ドラヴィダの穏やかな生活はうらやましいかぎりでした。

ヒンドゥー教そのものも、そうした事情を反映し、ひじょうに早い時期からドラヴィダの大地に移り、ここでこそ豊かな発展を続けていたのです。

植物の心【コラム】


「痛てえ~」

痛風。足の親指が真っ赤に腫れあがり、文字どおり、風が触れるだけでも痛く、歩くのもままならぬ。家で発泡酒ばかり飲んでいた報いです。かといって、禁酒する気はさらさらない。

少々値は張るが、ちゃんとしたビールに切りかえたら、すぐに治まりました。

(痛風は男にしか罹らぬ病だ。おれもまだまだオトコだな……)という奇妙な安堵感を残して――



さて、パワースポットといわれるようなところに行くと、決まってでっかい「樹」がそびえてます。

風格があります。オレが天地を支えているのだ、と誇らしげです。

ヌシが住んでいる、という気配をまとっています。

そして、フィトンチッドを放出して、われわれを癒やし、すがすがしい気分にさせてくれます。

そんな樹にかぎらず、あらゆる植物はさまざまな化学物質――動物のフェロモンにあたるものを葉や根から分泌しています。フェロモンはエロ関係だけではありません。他の個体とのコミュケーションをはかるための言葉のようなものです。

……好き……嫌い……嬉しい……悲しい……助けてあげる……やっつけてやる……みたいな。

それによって、縄張りを守ったり、ほかの植物の成長を促進したりしています。みずからの生殖のために花粉を運んでくれる虫には蜜とうっとりするような香りを大盤振る舞いしますが、自分を食べる虫が来ると、われわれが殺虫剤を噴霧するように毒霧を吐いて、追っ払います。

では、それらの反応を統括する心のようなものはあるのでしょうか?



「あるはずがない」と多くの学者はいうでしょう。

「植物には、感覚細胞も神経もない。よって、心など成立しようがない。化学物質云々は、進化の過程においてプログラミングされた単なる反射にすぎない」

たしかに、植物は、泣きも笑いもしません。歌ったり、踊ったりもしません。しかし、ちゃんとしたお百姓や園芸家は、植物の泣き笑いや、歌や踊りも感受しているかもしれません。怒りや憎しみも。

植物に心――その定義はじつに難しいが――のごときものがあるとしたら、かれらの欲望は〈個〉より〈種〉の保存に集中しているにちがいありません。自分の死より、自分の子孫が絶えることを惧(おそ)れています。

だから、人間が次の収穫のために種子を保管し〈種〉の維持を確実なものにしてくれるのであれば、人間の食欲に感応して、自分を「おいしいもの」へといくらでも改造してみせる。地中海沿岸に野生していたアブラナの仲間は、ダイコンにも、カブにも、キャベツにも、ハクサイ、ブロッコリー、カリフラワーにも化けおおせてみせました。

アーユルヴェーダの薬師(くすし)たちは、薬用植物の声を聞きわけ、かれらを愛し、かれらの「助けてあげる」の気持ちをつのらせてから収穫しました。

しかし、生命の根幹である種子そのものを管理しようとすると、誇り高い植物はどんな反応を見せるでしょう? タネを結んでも、生をつなぐことのできない不能の奇形をつくろうとすると――



そう、わたしは遺伝子組み換えのことをいっています。先述の「学者」とは、そうした企業から報酬を得る御用学者をさしています。

ディフェンシブ・ミューテーション(防衛変異)ということばがあります。自然界では天敵に対して、みずからをその天敵の毒と化して生き延びる生物は珍しくありません。

フグがそうです。フグの毒はフグ自身がつくるのではありません。食物連鎖がつくりました。毒源となるのは海中の細菌。これがカニやヒラムシに寄生し、それをフグが食べると、肝臓や卵巣に猛毒が濃縮されます。フグはおのれの身を守るために、この方法を開発しました。

狂牛病もそれに類するものと思われます。同族の屍骸を粉にして食わせられたウシたちは、他牛を啖(くら)い、みずからを啖わせる果てなき反復のなかで、それを強制する天敵への呪いを、増幅し、おのれの肉のなかに異常タンパク質として凝り固まらせたのだと。

そして、植物は心がないから安全である、と誰がいえるでしょう。

すでに、小麦は、ジャガイモは、人体によくない、といわれています。いずれも主食として人類を数千年もの間やしなってくれた恩人の、敵を「やっつけてやる」が発動されたのです。

現在、発泡酒には「遺伝子組み換えではない」の表示はしなくてもよいことになっています。つまり、発泡酒の原料はほとんどが遺伝子組み換えと見てまちがいない。

そして、われわれの主食である米も、やがては反乱を起こすでしょう。

しかし、日本は民主国家。われわれにできる対抗策は、今のところ選挙に行くことぐらいしかありません。

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プロフィール

インド作家_伊藤武(クルシー)

Author:インド作家_伊藤武(クルシー)
 
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