FC2ブログ

バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

Entries

【キッチャーチー khiccāccī】ちょこっとサンスクリット語


洋食といえば、トンカツ、オムライス、カキフライ、そしてカレーが代表的なものでしょうか。幕末から明治・大正にかけて、西洋のハイカラな食文化を取り入れようと奮闘した数世代前の日本人の心意気の伝わってくる、ちょっと愛おしくなる言葉です。
似たものに、アングロ・インディアン・クイジン(英国インド料理)があります。
ご存知のとおり、英国にはろくな料理がありません。食にこだわることは宗教的堕落――が理由だそうだから、それなりに尊重すべき食文化といえましょう。しかし、インド支配が堕落をもたらします。英国人は、インドのスパイス料理の虜(とりこ)になってしまうのでした。
暑さと湿気が吹き上げてくる大地では、スパイスが魔物のように食欲を駆りたてるのです。まるで餓鬼(がき)にとり憑かれたように食って、食って、食いまくりました。食べすぎが原因で、18世紀のある1年間をとっても、インドに派遣されていた陸軍分隊848人中の87人が死亡した、という記録があるほどです。
かれらは、故国に帰っても、インド料理に餓えました。そうして生まれた英国インド料理として、代表的なものとしては、マリガトーニ、チャツネ、ケジャリーなどがあります。
マリガトーニ(mulligatawny)は、タミル語の ミラグタンニール(miragu 胡椒-tannīr 水、スープ)にもとづく語で、タミル料理のラッサムが原形とされています。この料理は18世紀後半に英国に伝えられますが、すぐにラッサムとは似ても似つかぬ料理――カレー粉を用いた、われわれがイメージする洋風カレーに変化しました。日本人が最初に食べたカリーの別名が、マリガトーニです。
チャツネ(chutney)は、ヒンディー語でチャトニー(caṭnī)とよばれるものが原形なのでしょうが、スパイスの利いたジャムみたいなそれは、インドでは見たことがありません。しかし、日本には1970年代から「本場のカレーにはチャツネが不可欠」として出回るようになった、と記憶しています。
そして、ケジャリー(kedgeree)は――

「米とダールの混ぜ粥」を意味するヒンディー語のキチャリー(khicaḍī)が起源です。
サンスクリットでは、キッチャーッチー(khiccāccī)。しかし、語源不明。おそらく、キチャリーに類する中世ヒンディー語がサンスクリットに取り入れられた語と思われます。
“キチャリー”の語の文献上の初出は、14世紀のムスリム旅行家イブン・バットゥータがアラビア語で著した『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』(1355年)とのことですが、同様の料理は古代からありました。たとえば、医典の『チャラカ本集』(Ⅰ-二七‐259,260)には、

 肉・野菜・脂・油・ギー・骨髄・果実を混ぜて炊いた粥は、
 力と滋養を与え、胃によく、重性で、身を肥やす作用がある。
 緑豆・胡麻・乳・ケツルアズキと混ぜて炊いたものも同前である。

としるされています。
またタントラ文献にあたると、護摩儀礼のあと、
「祭司は余った供物は、全部いっしょにして粥にし、施主や参加者にふるまう」
とあります。供物とは、米、豆、胡麻、野菜、ギーなどですが、敵をやっつける調伏儀礼には動物の肉や脂も用いられました。そしてサードゥが、托鉢で米やダールや野菜を得ると、作る料理は必然的にキチャリーのような雑炊(ぞうすい)になってしまいます。
しかし、サンスクリット文献では、なべてyavāgu(粥)で、“キッチャーッチー”以外に混ぜ粥をあらわす料理名が見あたらないのです。
中世ヒンディー語の“キチャリー”には、「苦行者や貧乏人の食う雑炊」というイメージがつきまとっていますが、16~17世紀にはムガル宮廷料理に仲間入りし、さまざまなスパイスやナッツも入った豪華なキチャリーも作られるようになりました。
それが英国に伝わって、“ケジャリー”。一般的なケジャリーは、日本の棒ダラにも似たタラの薫製のダシで米を煮て、それにほぐしたタラの身、カレー粉、パセリ、ゆで卵、グリンピース、バターなどを混ぜた、混ぜ粥というよりも、混ぜごはんに近いもの。もっとも本家のインドのキチャリーのレシピは千差万別で、ピラフに近いドライタイプのものもあります。

キチャリーは、日本でも最近は、すっかりポピュラーなものになりました。英国経由ではなく、ヨーガやアーユルヴェーダ関係者を通じて、インドから直接伝わった混ぜ粥タイプのものです。お腹にやさしく、おいしい。
レシピはネットで検索すればいろいろ出てきますが、わたしが作るのはもっとも簡単なもの。
米とダール(だいたいムーング)と、6倍ほどの水と、ターメリック粉を圧力鍋に入れて、5分ほど沸騰させる。塩で調味し、クミンなどのスパイスを熱したギーをジャッとかけ、香菜をちらして出来上がり。チャツネはどうかと思いますが、アチャール(漬物)や臭い魚の干物(じつはインド人もよく食べる)はよく合います。体調が悪いとき、二日酔いのときにおすすめ。
スポンサーサイト

【マルマヴィディヤー】コラム



アーユルヴェーダは、内科のチャラカと、外科のスシュルタに大きく二分されます。現在行なわれているのは主にチャラカ系であり、スシュルタ系はほとんど顧みられていません。しかし、ハタ・ヨーガと併せて学ぶのであれば、スシュルタにこそ注目すべきでしょう。
なぜなら、ハタ・ヨーガを行じるさいに求められる微細身――プラーナの流れる脈管やチャクラから成る身体は、外科の根本文献『スシュルタ・サンヒター』を第一次資料とする「マルマ論」にもとづいているからです。

マルマという語の初出は『リグ・ヴェーダ』。神々の王インドラが、竜神ヴリトラのマルマを攻撃して、これを殪した、という伝説。『スシュルタ』はその3千年後に、戦場で負傷兵の体を「切ったり貼ったり」する従軍医師たちのマニュアルとして編まれました。
「マルマ論」は、それぞれのマルマの構造(筋肉、脈管、靱帯、骨、関節)、そこを負傷したさいの結果(その日のうちに死、2週間以内に死、矢を抜くと死、障害が残る、激痛をもたらす)を中心にまとめられています。その記述はきわめてシンプルです。たとえば――

 第三指の延長線上の足の裏の中央にあるは、タラフリダヤなる名のマルマ。
 筋肉から成り、大きさは半指幅。そこを断たれれば、激痛により2週間以内に死。
 ……そこを断たれた者の足は、足首の処でただちに切断すべし……それにより患者は、
 最大の不幸(死)を迎えことなく、枝を落とした木のごとく、存(ながら)える。

そうしたマルマが107列挙されています。

 破(や)れ折れした内臓や頭や頭蓋であっても、その身への外科の処置によって、存えうる。

従軍医師たちは、『スシュルタ』の記述にもとづき、負傷兵の救済に尽力したのです。
しかし、マルマの位置については、『スシュルタ』の記述に曖昧なところがあるため、また高度なサンスクリット解読能力が要求されるため、インドの医師や武術家、研究者のあいだにもかなりの異同があります。それを、大幅に修正にしてくれたのが、前回述べたJ・N・ミシュラ著『マルマとそのマネージメント』(MARMA And Its MANAGEMENT)。
解剖学者であるミシュラ博士は、十数体もの献体を解剖して、『スシュルタ』にしるされるそれぞれのマルマの構造、損傷の結果と照合し、その位置を現在の解剖学における学名と同定しました。
マルマ論は、古代インドの従軍医師たちの数千年にわたる患部の観察の蓄積といえましょうが、同様の蓄積が現代にもあります。建国以来、戦争を国是とするアメリカは、戦死傷者の死因や治療にかんする膨大なデータを保存しています。
ミシュラ博士は、それとも照合し、『スシュルタ』の記述が正確であることを証明しました。
前記のタラフリダヤ。そこを貫かれたら、さぞかし痛いことだろうが、ほんとうに死にいたるのだろうか? ところが、アメリカの記録によると、その部位を損傷した者は、破傷風(はしょうふう)に罹患する可能性がきわめて高くなる。そして破傷風を発すると、まさしく「激痛により2週間以内に死」。
『スシュルタ』は、マルマの神秘の背後に、プラーナの存在を確信していました。彼は、マルマを、
――自然的かつ特殊的なプラーナの座。
と定義しています。
しかし、プラーナの座であるマルマとマルマがどう繋がっているのか? 
そして、どのような全体像を描いているのか? 
スシュルタ学派は解剖も行ないましたが、そうしたことは屍体からはうかがえません。
そこで、かれらは、あるいは武者や行者たちは、おのれの身体の相当部位に意識を凝らすようになります。瞑想する、あるいは霊視する、ということです。それが古代人のやりかたでした。
微細身は、そうして見出されたのです。

さて、YAJでは、6月8、9日(土日)に、高尾山合宿「マルマヴィディヤー(マルマの科学)」を予定しています。お配りする冊子『マルマヴィディヤー』(有料)には、『スシュルタ・サンヒター』の「マルマ論」の原文と直訳文を収録します。

【ボータ Bhoṭa भोट】ちょこっとサンスクリット語


ボータ(Bhoṭa)とはチベットのこと。チベットの自称Bodがサンスクリット化した言葉です。
Bodは「呼ぶ」の意だといわれます。六道――すなわち、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の6つの世界の住人が、観音菩薩に1人ずつ呼ばれて、チベット高原にやって来た。それがチベット民族の祖先なのだとか。しかし、これはチベットが仏教国になってからの後づけで、「能力のある」がBodの原意です。
唐代の中国人は、Bodをひっくり返して、禿髪(とくはつ)とか吐蕃(とばん)とかいう名で呼びました。「ハゲアタマ」に「ゲロゲロ吐く野蛮人」。他国の名にひどい字を当てるのは、中国人の悪癖です。しかし、その吐蕃が突厥(とっけつ;中央アジアのトルコ系民族)碑文にはTüputと音写されており、これがウイグル人を通じてイスラム圏に伝えられ、そのアラビア語化した形Tbtが、ヨーロッパ人のTibetに起源となりました。

標高3000~4000メートルの苛酷な大地で、「能力ある人びと」はたくましく生き抜きました。
7世紀建国の吐蕃はおそるべきアジアの征服者でした。かれらは唐王朝をゆさぶり、何度も都長安を襲い、インドのいくつかの王朝も攻撃し、シルクロードの要衝を占領しました。バグダッドのカリフとも二度戦って勝利をおさめています。
たいへん強い集団で、のちのジンギスカンのモンゴルのようなものでした。
東では中国、ビルマと戦い、南ではインド、北は中央アジアのペルシアやトルコの勢力、西はアラブの帝国と、吐蕃の勢力はおどろくほどの勢いで広まっていったのです。
それから1千年後の17世紀、かれらは驚くべきことをやってのけます。仏教の「非暴力/不殺生」(ahiṃsā)の教えにのっとり、非武装を実践したのです。好戦的であった過去が、チベットの国民的スポーツであるポロとアーチェリーと格闘技に名残をとどめています。
チベット文明は争いの方向を選ばなかった。チベットが進んだような道を歩んだ国はほかにはありません。世界史の奇跡と云ってよいでしょう。ほかの国はチベットとは逆の道を辿ったのですから。
しかし、不幸にもそれが災いし、平安なる仏国土は野蛮な共産帝国の軍靴に踏みにじられました。「チベット」は、残念ながら、いまのチベットにはありません。
しかし、ラダックにあります。

ラダックは、チベット高原の西の端の、インダス源流域をさす地名(現在はインド領)。
古代インドのサンスクリット文献には、ダラダ(Darada)の名で記録されています。「ダルド族の国」の意です。ダルド族は、インダス=リグ・ヴェーダ文明の時代にインダス河をさかのぼって、そこに住みついた、いわゆるアーリヤ系の人びとの子孫です。かれらもまた吐蕃に征服され、チベット人と同化してゆきました。
以後のラダックは、つねに、インドに向けられたチベットの玄関でした。9世紀に吐蕃が崩壊し、仏教が廃れたときも、インド仏教はこの地を通って、ふたたびチベットを潤してゆくのでした。
http://itotakeshi.blog33.fc2.com/?m&no=144
現在のラダックには、アーリヤ系の面立ちを残したダルド人も、トルコ系のムスリムもいます。仏教徒とイスラム教徒が共存する世にも稀なる地域なのです。
ともあれ、褐色の大地と群青色の空のはざまに、強い光と濃い影にあやなされた、人間のナマの祈りがそこにはあります。原色の密教が、愛と怒りの仏たちのおりなす曼荼羅が、人びとの暮らしのなかで息づいているのです。

PS:ただいま、ラダックツアー「天空曼荼羅の旅」(2019年8月24日~9月1日)、募集中。
ご質問、ご予約はカイラスへ。http://kailash.jp/

【マルマ・マネージメント】コラム

――20世紀のグルたちは、いかなる意図をもって、YOGAを再建したのでしょう? 
――そして、ハタ・ヨーガのオリジンはどのようなものだったのでしょう?
と、前回しるしました。
『ヨーガ・スートラ』の「ヨーガは心の活動の停止」というヨーガの定義を受け入れたうえで、この聖典の「識別(ヴィヴェーカ)による開悟の道」を離れ、プラーナの制御(アーヤーマ)によって、フィニッシュまで持っていこうとしたのが、ハタの始まりです。なぜなら、心の活動も、プラーナの作用であるから。
しかし、クヴァラヤーナンダやクリシュナマチャリヤといった20世紀の偉大なるグルたちにとっては、それは受け入れがたい考えでした。かれらがプラーナを知らなかったわけではありません。
クヴァラヤーナンダは、身体操作と意志の力で、肛門から水を吸い上げる「ヨーガの浣腸」を行なっているし、クリシュナマチャリヤは自身の心臓をほとんど停止させることまでやっている。これらはプラーナのコントロールなくししては、絶対に出来ることではありません。
問題は、西洋科学万能の20世紀前半という時代であったこと。
当時のインドは英国の奴隷でしたし、ほとんどの西洋人や西洋かぶれしたインドの知識人にとって、「東洋のプラーナや気」なんてものは、実証性のとぼしい迷信にすぎませんでした。
かれらが、YOGAを現代によみがえらせるには、プラーナも、プラーナで出来た身体である微細身(スークシュマ・シャリーラ)も、棄てざるを得なかったのです。プラーナのかわりに「実証性のある西洋の解剖学」を据え、プラーナーヤーマを「二酸化炭素と酸素を効率よくガス交換できる呼吸法」にすり替えるのが関の山でした。
グルたちが“ハタ”に託したのは、西洋的な理論に耐えうる健康法やフィットネスとしてのYOGAでした。しかし、プラーナなくしては、ヨーガのゴールにまでは到りません。そこで、その上に『ヨーガ・スートラ』の「識別開悟の道」が、“ラージャ”またはメディテーションとして重ねられたのです。

20世紀後半になると、西洋科学万能主義も翳りを見せはじめます。
ブルース・リーの映画のヒットを皮切りに、一部の西洋人たちも「気」を気にするようになりました。
少しおくれて、インド・ケーララの古武術カラリパヤットが、BBCの放送を介して、その巨大な姿を現わします。カラリパヤットは、まことに、ヴェーダ以来の伝統的な身体観の宝庫でした。
真のハタと身体を共有し、現代ヨガが置き去りにしたプラーナもプラーナーヤーマも微細身も、そこでは生きた知識として伝承されていました。なにせ、プラーナにもとづいて武術と医術を行なうのですから、実証性にはこと欠きません。
そして、その焦点となるのが、粗大身(肉体)と微細身をつらぬくマルマの知識だったのです。
マルマは粗大身にあっては、その者を生かしも殺しもする急所として作用し、微細身にあってはプラーナの流れる脈管の交点として機能します。武者は、あるいは行者は、マルマをもとに、おのれの微細身に瞑想することができます。
インド人もマルマに注目するようになり、マルマ本も数多く出版されるようになりました。が、残念ながら、邦訳されているものも含め、それらのほとんどは中国のツボの理論をパクったものです。
http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-155.html
http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-154.html
しかし、なかには、すぐれた著作もありました。
J・N・ミシュラ著『マルマとそのマネージメント』(MARMA And Its MANAGEMENT)。
解剖学者であるミシュラ教授は、何体もの献体を解剖して、アーユルヴェーダの古典にしるされるマルマの位置と機能を徹底的に検証し、そのうえでカラリパヤットのマルマ理論と重ねてみせました。

さて、YAJでは、6月8、9日(土日)に、高尾山合宿「マルマヴィディヤー(マルマの科学)」を予定しています。ミシュラ教授の書を参考に、中医学のツボとの対比、アーユルヴェーダからの解釈など、さらに深くマルマ理論を解説します。

【パラ phala फल】ちょこっとサンスクリット語



植物の各部分の梵名は——
根=ムーラ(mūla)、茎=バンダナ(bandhana)、幹=スカンダ(skandha)、枝=シャーカー(śākhā)、葉=パトラ(patra)、花=プシュパ(puṣpa)、そして果実はパラ(phala)。
√phal(実る、実を結ぶ)を中性名詞化した語で、「結果、報酬」の意味でもよく使われます。

さて、インドでフルーツといえば、筆頭にあげるべきは、マンゴー(āmra)とバナナ(rambhā)。この2つはたいへん神聖で、宗教儀礼にも欠かせません。
現在世界中で栽培されているオレンジ(nāraṅga)やレモン(jambīra)などの柑橘類は、すべてヒマラヤあたりが原産です。ピンポン球ぐらいの大きさのニンブー(nimbū)は、レモン味のライム——レモンとライムは、味ではなく、果実の皮の厚さで区別します。厚いのがレモンで、薄いのがライム。料理に酢をほとんど使わないインドでは、酸味料としても用いられます。
メキシコあたりが原産のパパイヤには、パピーター(papītā)という梵名が与えられました。
ほかにも香り高く、美味しいフルーツはたくさんありますが、ヒンドゥー教で最も神聖とされているのは、じつはココナッツの実。ココヤシの一般名はナーリケーラ(nārikera)ですが、果実は特にシュリーパラ(śrī-phala;「聖なるフルーツ」)と称されます。寺院の塔のてっぺんに置かれている先の尖った球状の飾り石は、このシュリーパラをかたどっています。

たしかに、ココヤシほど自然の恵みを体現した植物はちょっとありません。
幹は建築資材になり、葉で屋根が葺けます。
樹液は酒になり砂糖にもなり、果実の中果皮はロープになり、殻はお椀にも炭(いわゆる椰子殻活性炭)にもなり、果水は飲料になり、果肉は食用になりミルクになり油になります。
といっても、何が何だか分からない人がほとんどだと思うので、少し説明すると——

ココヤシの幹のいちばん上から、花序(または花穂)とよばれる茎が何本も生えてきます。その茎を切り落とし、壺を結わえつけておくと、樹液がたまります。花序とは将来、花が咲き、実が稔る部分ですから、そこからあふれ出す樹液は、必要な栄養素がすべてそろった、動物でいえば血液に等しい、メープルシロップのような液体です。ねっとりと甘く、その約15%が糖分。それを煮詰めて固化したのが椰子糖(ジャガリー;梵matsyaṇḍikā)。
壺に集めた樹液をそのまま放置しておくと、この糖分が天然のイーストの作用で、アルコールに変わります。
ほったらかしにしておけば椰子酒(梵tāḍī)。しかし、酒は椰子糖にはならない。そこで、椰子糖をつくるには、日に2度は木に登って壺を下ろし、電光石火のスピードで加熱して発酵を止めなければなりません。ナマケモノのわたしであれば、木に登るのは2、3日に一回になることでしょう。
花序を切らずにおくと、花が咲き、やがて実を結びます。
実のなかに堅い球状の殻があります。実の外皮と殻のあいだの繊維質の部分が、ロープの原料とされる中果皮です。
殻の中に果水、いわゆるココナッツジュースがたまります。栄養満点の最高の清涼飲料です。人体への同化作用も著しく、しかも無菌であるため、なんとそのまま点滴剤に使えるほど。
このジュースは、半年ほどすると、固まって、殻の内側にへばりつきます。
これをフレークにして、水に溶いて搾ったのがココナッツミルク。
天日で干して、水気を飛ばしてから搾ったのが、最近「もっとも優良な油」として注目されるようになったココナッツオイルです。

こうして見ると、“シュリーパラ”の名は伊達(だて)ではありません。
しかも、その人の頭ほどもある大きな実の一個一個が、そのまま生命をもった種子(bīja)なのです。ヒンドゥー教では、シュリーパラにはアートマンがそなわっているとされ、寺院ではかつての人身供犠の生首の代わりとして、神に捧げられます。

左サイドMenu

プロフィール

インド作家_伊藤武(クルシー)

Author:インド作家_伊藤武(クルシー)
 
メルマガ『満月通信』のコラムを載せていきます。
 
講座案内等はこちらでお知らせしています。
http://malini.blog105.fc2.com/

お問い合わせはこちらまで。
yaj612@gmail.com

twitter

最新記事

最新トラックバック

右サイドメニュー

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR