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バン・ボーラ!──伊藤武のなまけブログ

作家・伊藤武かきおろしーーーーー満月通信のコラム

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ブラフマン brahman ब्रह्मन् 【ちょこっとサンスクリット語】



ブラフマン(brahman)。語源は√bṛṃh(語る/輝く)。インド最初の文献『リグ・ヴェーダ』において、ブラフマンとは、ヴェーダ儀礼の祭官の口から滔々(とうとう)と流れる呪文とその効力の発現を意味していました。
この時代、輪廻思想はまだありません。人は死んだら、あの世で先祖の霊と楽しく暮す。つまり、解脱という思想もまだない。よって、ヴェーダ儀礼は現世利益の魔法にほかなりませんでした。いまの日本でも、密教寺院にお参りすれば、護摩を焚いて、家内安全・事業繁栄・当病平癒・良縁成就……をお祈りしてもらえますが、そんな感じです。僧侶ないしは神官の誦える真言(マントラ)と、祈禱を成就せしめる玄妙不可思議なパワーが、原初のブラフマンだったわけです。
BC.2000年ごろから始まる後期ヴェーダ時代に入ると、ブラフマンは抽象的な至高原理に格上げされます。そして、ウパニシャッドにおいて輪廻と解脱の思想が現われ、
――おのれの本質(ātman)がブラフマンである、と悟らぬかぎり、永遠に生死をくり返す。
というインド哲学の骨格が形づくられていきます。
それでは、至高原理としてのブラフマンとは、いかなるものなのでしょうか。あるいは、どのように考えればいいのでしょうか。ブラフマンを定義する語を2つあげておきます。

ひとつは、√as(~である/在る)が発展したサティヤン(satyam)。「存在、真実、実在」などと訳されます。http://itotakeshi.blog33.fc2.com/blog-entry-49.html
すなわち「真実」と「存在」は同義ではありますが、ウパニシャッド哲学の正統を自負するヴェーダーンタ学派は「移ろいゆくもの、時間のうちにあってやがて滅びゆくもの」を「存在するもの=実在=真実」とは認めません。
山々は、たかだか百年ほどしか生きられぬ人間の目には不動と映ろうが、何万年、何千万年という時間を早送りして眺めれば、波のように盛りあがり、崩れてゆくことでしょう。かようなものは、「実在」の名に値しません。
インドの宇宙観は、宇宙は創造と破壊をくり返すと説き、現代科学はこの説を支持しています。すなわち、ビッグバンが起こり、宇宙は打ち上げ花火の花が開くように膨張してゆく。しかし、いつか、宇宙は膨張することをやめて、今度は収縮に向かうのです。そして、全宇宙は一点にまで集中してしまう(ビッグクランチ)。つまり、百億年、千億年という時間の目盛りで眺めれば、宇宙すらも「存在する」とは云いがたい。
かくして、ヴェーダーンタは、つねに変化するもの、転変するものを「偽り」(mithyā)と称し、永遠不滅なものを、すなわちブラフマンのみを「真実」または「実在」(satyam)と呼ぶのです。

もうひとつは、√pṛ(満たす)が発展したプールナン(pūrṇam)。「円満、完全円満」と訳されます。
最古のウパニシャッド『ブリハッダーラニヤカ』第五巻のオープニングを飾るプールナ・マントラは、ブラフマンを、それぞれ数式に置きかえることのできる4つの簡潔な文をもちいて数学的に定義しています。

pūrṇam adaḥ pūrṇam idaṃ pūrṇāt pūrṇam udacyate,
pūrṇasya pūrṇam ādāya pūrṇam eva avaśiṣyate.
  あれも円満 これも円満 円満から円満が生ず
  円満から円満を取り去れば まさに円満が残る

数式で表わせば、
①pūrṇam=adaḥ(あれ) ∴「あれ(未顕現すなわちビッグバン以前のブラフマン)は円満」
②pūrṇam=idam(これ) ∴「これ(顕現したブラフマン)は円満」
③pūrṇam>pūrṇam ∴「円満から円満が生ず」
④pūrṇam-pūrṇam=pūrṇam ∴「円満から円満を引けば、まさに円満が残る」
なお、「円満(ブラフマン)から円満を引けば、まさに円満が残る」というマントラの最後の文は、数学者カントールの「無限の定義」に酷似しています。



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インドのもどき料理【コラム】



もどき料理に、ハマったことがあります。
材料は全部植物性なのに、肉の味がする。中国の高級な素菜(精進料理)ともなると、ちょっと見たところでは本物と区別がつかないぐらい魚そっくりの形に作り、味も魚に似せる。
そんな工芸品みたいのは無理でも、自分でもいろいろ作ってみました。
よく知られるのは、ウナギの蒲焼きもどき。水抜きした豆腐とヤマイモとクズ粉に醤油を加えてすり鉢ですり、海苔を貼りあわせて油で揚げる。と、豆腐以下が脂肪の多いウナギの肉のように、海苔の部分が皮のようになる。これに醤油、酒、ミリンを合わせたタレを塗り、蒲焼きにつきもののサンショをふる。すると不思議、ちゃんと「ウナギの蒲焼きの味」がします。
ウナギと名はついても、日本ではほとんど食されないタウナギのもどきは、もっと簡単。干しシイタケを水でもどし、ハサミでぐるぐる螺旋状に切る。醤油をつけて片栗粉をまぶして、油で揚げる。そのまま食べてもおいしいが、野菜といっしょにショウガをきかせた炒め物にすると、台湾なんかで食べる「タウナギ炒めの味」がします。
しかし、この味は、どうやら幻のようです。
ダシのうまみ、油っけ、たぷっとしたタンパク質、食感、そしてオリジナルの料理につきもののスパイスの香り――たとえばウナギの蒲焼きにおけるサンショ――がそろうと、脳がこれまでたくわえてきたデータと照合して、これは肉である、魚である、と錯覚してしまうのです。
「そこまでして、肉らしきものを食いたいのか!」
とコアなヴェジタリアンからお叱りの声が聞こえてきそうですが、ばかす工夫と情熱に魅かれます。

では、精進料理・菜食料理の本家本元のインドではどうでしょう。
ナマグサを食べることすら罪ととらえる傾向の強いヒンドゥー教だから、もどき料理なんてあるはずがない、と思われるかもしれませんが、じつはけっこうあるのです。
まず、約2000年前にしるされた『マヌ法典』に、こんな一節があります。

 kuryād ghṛta-paśuṃ saṅge kuryāt piṣṭa-paśuṃ tathā (Ⅴー37a)
 [肉を]欲するときは、ギーで動物をつくるべし。[豆や麦の]粉でも動物をつくるべし。

『マヌ法典』が編まれたのは、ちょうど菜食主義が広まりを見せるころですが、もどき料理の記述にほかなりません。piṣṭa(粉)とあるだけで何の粉を使うかの指定はありませんが、現在ではベーサン、すなわちチャナ・ダール(ヒヨコ豆)の粉を使うことが多いようです。
ベーサンは、パコラ(てんぷら)の衣にするだけが能ではありません。タンパク質が豊富で、そのうえデンプンにも富んでいるため固まりやすく、肉にばかしやすいのです。
たとえば、ウナギの蒲焼きもどきに相当するほどポピュラーな、カバーブもどき。
ベーサンに、本物のカバーブ(おもにヤギの挽き肉をソーセージ型にして焼いた料理)に合わせるスパイス――コリアンダーの粉と葉っぱ(香菜)、クミン、ガランマサラ、赤トウガラシ、黒コショウ――にヒングやターメリック、塩、ギー、そしてニンニクとタマネギOKならば、そのみじん切りを炒めたものも加えて、水でねり、これを丸めて油で揚げます。
香菜とクミンはヤギ料理には付きものだし、赤トウガラシとターメリックは肉らしい色合いを、ヒングは風味を生み出します。
このまま食べてもいいし、肉らしく切って、カレーで煮込んでもいい。

今では、日本のスーパーでも、ダイズやコムギでつくった「精進肉」が入手しやすくなりました。肉もどきカレーをつくるのも簡単になりましたが、インド料理や菜食に興味のあるかたは、「インドの本物の肉もどきカレー」(ヘンな表現だ)を試してみたらいかがでしょう。

インドではドライのグリンピースをよく使いますが、水でもどしてから煮た汁には、肉もどきカレーにはぴったりの濃厚なうまみ成分が溶け出しています。イタリアンで使うドライトマトのもどし水も、昆布やシイタケに負けないくらい美味しいダシになります。

シャーカーハーラ śākāhāra शाकाहार【ちょこっとサンスクリット語】

今月の【コラム】は、お休みです。

シャーカーハーラ śākāhāra शाकाहार【ちょこっとサンスクリット語】

アーハーラ(āhāra)は、ā(強調)-√hṛ(取る)の名詞化で、「取り入れること/入力」が原意。
アーハーラにprati(反対する/遠ざかる)を冠したプラティヤーハーラ(pratyāhāra)は、感覚入力をオフにするヨーガの「制感」(感覚の制御)をさします。
しかし、アーハーラは「料理/食事/食物」の意で使われることがほとんどです。語末の-aが落ちたヒンディー語のアーハールは「食物/料理」ですし、タイ語の「料理」のアーハーンもその訛り。
では、アーハーラに、シャーカ(śāka;野菜)を冠したシャーカーハーラは何でしょう?
野菜料理ではなく、「菜食主義」が正解です。「野菜料理」は、シャーカ・パートラ(-pātra)。パートラはパトラ(patra;葉)の派生語で「皿」。インドでは、ごはんは葉っぱのお皿で食べましたから。
そして、いまもバナナの葉っぱのお皿が大活躍するタミルナードゥは、世界中の菜食主義者のあこがれの聖地。この地の料理を初めて食べる者は、
――植物だけで、これほど深くて豊かな味わいをつくり出せるなんて!
と、一様にカルチュアショックをおぼえます。世の菜食料理にありがちな単調さが微塵もありません。それ自体のうちに、巨大な文明の存在を感じてしまいます。
ドラヴィダ(タミル)に菜食主義が定着するのは、パッラヴァ朝下のマハーバリプラムで寺院建築が花開く7世紀のことです。

ヴェーダ儀礼は、動物供犠がともないます。牛、馬、羊、山羊が四大犠牲獣とされ、屠られた動物は、とうぜん調理されて(おもに煮込み)食されました。これに敢然と異議申し立てをしたのが、ブッダとジャイナ教開祖のマハーヴィーラ。菜食主義の始まりです。
しかし、それは完全なシャーカーハーラではありませんでした。なぜなら、出家は食を托鉢(たくはつ)に依っていたから。施食を選り好みできる立場にありません。つまり一般庶民の食が修行僧の食でもあったのです。徹底したアヒンサー(非暴力/不殺生)で知られるジャイナ教徒も、初期にはふつうに肉食していたことが、文献からうかがえます。
北インドでは、西暦紀元前後からじょじょに菜食主義が広がってゆきます。その背景には、農業の飛躍的な進歩がありました。
たとえば、ガティ・ヤントラ(ghaṭi-yantra;壺の器械)とよばれる揚水車の発明。牛または水牛の地上をぐるぐる廻る回転運動が2つの歯車を介して水車を回し、それに結わえられた壺が、井戸や谷底の水を汲み上げる――という装置です。インドの灌漑(かんがい)の象徴といってよい。ガティ・ヤントラの普及がインドの曠野(こうや)を沃野(よくや)に改造し、強いては肉食に頼らずとも生きていけるシャーカーハーラを可能にしたのです。
そして、AD.300年ころ、「あらゆる肉食の禁止」をさだめる大乗仏教の戒律が成立します。仏教教団が、インド諸王の庇護を受け、荘園を寄進されたがゆえの完全菜食です。托鉢せずとも、荘園からの上がりだけで食をまかなうことができるようになったのです。
ドラヴィダでは、西暦の始めごろまではバラモンであっても肉食が当たり前でしたが、5、6世紀に、ヴィシュヌとシヴァの信徒vs仏教徒の確執がありました。前者は、肉を放棄せぬかぎり、非暴力と菜食主義を信じる仏教徒よりも優位に立つことは難しかったのでしょう。ゆえに、かれらは、根本教理のひとつとして、肉食の禁止を採用したということです。

インドのシャーカ・パートラが美味しいのは、油とスパイスの使いかたがとびきり上手だから。アーユルヴェーダの薬用オイルが患部にしみ込んで効力を発揮するごとく、スパイスの成分をまとった油は素材を内側から活性化します。
くわえて、南インドでは、北にはないココナッツが、限りない滋味をもって料理をはぐくんでくれています。

ローティー roṭī रोटी【ちょこっとサンスクリット】


野に住むサードゥにパンを焼いていただきました。
托鉢で得たアータ(小麦の全粒粉)を水でこねてボールにし、掌で打ちのばして平たくする。これを熱い灰に埋め、火が通れば完成。ヒトが初めて食べたパン、を想わせる原始のパンです。
「パン」を表わすサンスクリットはいくつかありますが、そのうちローティー(roṭī)は今日でもそのまま使われている言葉です。√ruṭ(打つ)が語根ですから、生地をパンパン打ちのばすことから出た語でしょう。
ところが、インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』に「生命をささえる糧(かて)」として称えられてるのはもっぱら大麦(yava)で、小麦(godhūma)のことも、ローティーのこともまったく触れられていません。つまり5000~4000年前のインド人は、サードゥがつくるようなパンすら口にしなかったのです。
当時のインド人が小麦を知らなかったわけではありません。小麦は大麦とともに、インド(正しくは、歴史考古学のモデル地区であるメヘルガル遺跡)では、約9500年前に栽培が始まります。しかし、長いあいだ、同じころに飼育が始まったヤギやヒツジの餌にとどまりました。なぜなら、小麦は調理するまでが大変だから。

コムギの実は、硬い外皮(モミ)に包まれています。オオムギやコメであれば、外皮はキネで搗(つ)いてやれば簡単に外れるのですが、コムギはそうはいきません。コメでいえば白米にあたる可食部の胚乳とがっちりと密着している。胚乳を取りだすには、外皮ごと粉にして、フルイにかけるしかない。その粉にする作業が、大変な重労働なのです。
リグ・ヴェーダのころ、エジプトではすでに発酵パンが食べられていましたが、製粉はもっぱら奴隷の仕事でした。すり臼、つまりインドで今もスパイスを擂るのに使っているような石盤と石棒で、朝から晩まで、ゴリゴリとすり潰すのです。
3000年ほど前に西アジアのどこかで回転臼が発明されると、この手間は一気に短縮されました。すり臼では100分かかる製粉が、回転臼では1分ですみます。まことにコムギのために生まれた器械でした。
回転臼はブッダのころまでにはインドにも伝わり、以後、さまざまなパンがつくられるようになりました。

おなじみチャパティ(ヒンディーcāpāṭī)は、梵チャルパティー(carpaṭī)の転訛です。これはチャルパタ(手のひら)に由来する語ですから、はじめはローティー同様、掌で打ちのばしたのでしょう。それが、ローラーを使って薄く伸ばした生地を鉄板で焼いたものに変わりました。
サードゥのパンはボソボソしていて美味しいものではありませんでしたが、チャパティは小麦の生のデンプンが瞬時にしてα化されるため、味はよい。シンプルだが、多くのインド人が長くこれを主食としてきたことからもわかるように、それ以上改善する余地がないほど完成度が高いパンです。
チャパティを小型にしたのが、プルカ(phulkā)。ギーを塗って弁当にされることが多い。
チャパティまたはプルカを油で揚げたのが、プーリー(pūrī)。油に通すことで、神に客人に与えるにふさわしい浄性が生じます。
パロッタ(綴りはparām̐ṭhā)は、生地にギーを塗って、層にして焼いたもの。ジャガイモなどの詰めものをして焼いたものもあります。
以上は、無発酵の生地を用いたパンですが、ナーン(nān)は古代エジプトのパンの流れを汲む、インドではパンジャーブに特有の発酵パンです。
ローティーは、現在のヒンディー語でも、これらさまざまなパンの総称として、またチャパティの古語として使われています。

現代インドのチャパティ用のコムギも、モンサントの餌食になりました。多くの農民が絶望に追いやられ、小麦食の拒否運動も起こりました。現在、インドはモンサントを追い出しつつあります。



縄文のソーマ【コラム】



遺跡発掘のアルバイトをしていた時期があります。
大地に鉋(かんな)をかけるようにして、地肌を一皮一皮剥いでいく発掘作業は、意識の深みにダイブしていく瞑想の体験に似ています。
おのれの幼年期の光景にどこかつながるようで馴染みある昭和、大正、明治の層――遺物のほとんどは土器――の下には、徳川三百年がのんきそうに寝そべっています。
室町、鎌倉、平安、奈良、飛鳥……。脈絡もなくよみがえる断片的な思い出のようです。道すがらながめたアジアの一風景が浮かびあがってきたりします。かの地を旅し、むかしの日本のようだ、と思うことは、だれしもあるでしょう。
関東ではローム層――太古の富士山が地の底から吐き出した赤いマグマの堆積にぶちあたると、縄文です。冥(くら)い、しかし豊饒な、無意識の領域をおもわせるフィールドです。
その発掘現場に東京国立博物館の平成館が建ち、このたび「縄文展」がもよおされました。ヨーガの仲間数人で見にいきました(もっとも満員で、ほとんど人の肩越しに見るにとどまりましたが)。

若いころ、スリランカの古都、アヌラーダプラの近くの森で過ごしたことあります。
森の中には、かつては水田を潤していたであろう人造湖が今も生きていて、そのほとりの3軒の小屋に、爺さま、婆さまから乳飲み子にいたるまで十数人の家族が住んでいました。
森で暮らす人々は素敵でした。偉大なる自由さをもっていました。朝、男たちが湖で漁をやる。2、3時間もすれば30センチほどの魚が数十尾も獲れる。昼は自分たちが食べる以外の魚をもって他のところに行き、コメや野菜と交換してくる。働くのはそれだけ。残りの時間は遊んだり、眠ったり、好き勝手なことをやっています。
日本の縄文の人たちもきっと、このように暮していたのではないか、と思ったことでした。
旧石器時代(縄文は新石器時代に相当するが)こそ真の「豊かな社会」が実現されていたと主張する人類学者もいます。農耕生活を始めることによって、人間の労働時間は一挙に十倍、十数倍にも増大したのです。
森の男は云いました。
「きみには聴こえるかい? この森の音楽が、鳥たちの歌が、草木のつぶやきが。 風の流れ、太陽の燃える叫び、大地の呻き、それぞれがこの夕暮れをうたっているのが。この黄昏のシンフォニーが、憩いに向かう森の音楽が、きみの裡(うち)でひびく脈動が……聴こえるかい?」

縄文は弥生と対になるコンセプトです。
縄文は狩猟採集。弥生は農耕。縄文の造形は複雑でサイケだが、弥生のそれはシンプルで明快。
縄文10,000年のあとを、1,000年に満たぬ弥生が足早に過ぎてゆく。しかし、短い弥生の上に、古墳、やまと、飛鳥、奈良……と今につづく「時代」が重ねられていく。
とはいえ、縄文が終わったわけではありません。つい最近まであった囲炉裏(いろり)を囲んでの食事は縄文スタイルだし(弥生はかまど)、ワラビなどを灰でアク抜きするのは、まぎれもなく縄文に発する文化です。
長野では、毒キノコとされるベニテングタケをすらアク抜きをして食用としますが、これも縄文由来です。縄文の家屋からはベニテングタケの脂肪酸が確認されていますから、利用されていたことは疑いありません。ベニテングタケのうまみ成分は、シイタケのそれの10倍も濃いのです。
そして、われわれの生活にも縄文が、ときおり顔をのぞかせるように思います。ツネ(日常)に対するマツリ、として。

さて、縄文展では、ハートや三角の顔や、この時代の日本にはいなかったはずのネコ科の動物の顔をした土偶に並んで、キノコの模型がありました。
中米のマヤ文明の遺物にも、神との交流に用いた聖なるキノコ、テオナナカトル(「神の肉」の意)の模型があります。それと似た特別のキノコだったのでしょう。そして、そのキノコとは、同じ時代のインドで“ソーマ”の名で神聖視された、前述のベニテングタケだったにちがいありません。
今もこれを食する長野の人たちは、ときおりアク抜きが不完全なため、サイケデリックな世界に飛ばされる、ということです。

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プロフィール

インド作家_伊藤武(クルシー)

Author:インド作家_伊藤武(クルシー)
 
メルマガ『満月通信』のコラムを載せていきます。
 
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